上にしまい込んで、出がけに母親に勧めた。
「私はヘイ。」と、母親は二十日《はつか》たらずも結ばない髪を気にしながら言った。
「お安さあは寄席どころではないぞえ。」と、主婦は古い小紋の羽織などを着込んで、莨入れを帯の間へ押し込みながら、出て行った。
 母親は東京へ来てから、まだろくろく寄席一つ覗《のぞ》いたことがなかった。田舎にいた時の方が、まだしも面白い目を見る機会があった。大勢の出て行ったあと、火鉢の傍で、母親は主婦《あるじ》が手きびしくやり込めるように言った一ト言を、いつまでも考えていた。気楽に寄席へでも行ける体にいつなれるかと思った。
「私は東京へ来て、商業《これ》に取り着くまでには、田町で大道に立って、庖丁《ほうちょう》を売ったこともあるぞえ。」と、主婦の苦労ばなしが、また想い出された。
 自分には足手纏《あしでまと》いの子供のあることや、長いあいだ亭主に虐《しいた》げられて来たことが、つくづく考えられた。
「あの人も、えらい出ずきだね。」
 やがて女中と二人で、主婦の蔭口が始まった。
 皆の跫音《あしおと》が聞えた時、火鉢に倚《よ》りかかって、時々こくりこくりと居睡《いねむ》りをしていた母親は、あわてて目を擦《こす》って仕事を取りあげた。
 主婦は眠そうな母親の顔に、すぐに目をつけた。
「この油の高いに、今までかんかん火をつけて、そこに何をしていただえ。」
 主婦は褄楊枝《つまようじ》を啣《くわ》えながら大声にたしなめた。
「私が石油くらいは買うで……。」と、母親は言い返した。
 主婦の声はだんだん荒くなった。母親も寝所へ入るまで理窟《りくつ》を言った。
 暗いところで小父の脱棄《ぬぎす》てを畳んでいながら、二人の言合いをおそろしくも浅ましくも思ったお庄は、終《しま》いに突っ伏して笑い出した。

     十七

 お庄はごちゃごちゃした日暮れの巷《まち》で、末の弟を見ていた。弟はもう大分口が利けるようになっていた。うっちゃらかされつけているので、家のなかでも、朝から晩までころころ独《ひと》りで遊んでいた。
「どうせもうそんなにたくさんはいらないで、この子を早く手放しておしまいやれと言うに――。」と、主婦《あるじ》は気を苛立《いらだ》たせたが、母親は思い断《き》って余所《よそ》へくれる気にもなれなかった。
 弟は大勢の子供の群れている方へ、ちょこちょこと走
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