った。彼のような幸福な人間では、けっしてなかった。
私はその温泉場で長いあいだ世話になっていた人たちのことを想い起こした。
「おきぬさんも、今ならどんなにでもして、あげるよって芳ちゃんにそう言うてあげておくれやすと、そないに言うてやった。一度行ってみてはどうや」義姉はこの間もそんなことを言った。
私はそのおきぬさんの家の庭の泉石を隔てたお亭《ちん》のなかに暮らしていたのであった。私は何だかその土地が懐かしくなってきた。
「せめて須磨明石《すまあかし》まで行ってみるかな」私は呟《つぶや》いた。
「は、叔父さんがお仕事がおすみでしたら……」桂三郎は応えた。
私たちは月見草などの蓬々《ぼうぼう》と浜風に吹かれている砂丘から砂丘を越えて、帰路についた。六甲の山が、青く目の前に聳《そび》えていた。
雪江との約束を果たすべく、私は一日須磨明石の方へ遊びにいった。もちろんこの辺の名所にはすべて厭な臭味がついているようで、それ以上見たいとは思わなかったし、妻や子供たちの病後も気にかかっていたので、帰りが急がれてはいたが……。
で、わたしは気忙《きぜわ》しい思いで、朝早く停留所へ行った。
その日も桂三郎は大阪の方へ出勤するはずであったが、私は彼をも誘った。
「二人いっしょでなくちゃ困るぜ。桂さんもぜひおいで」私は言った。
「じゃ私も行きます」桂三郎も素直に応じた。
「だが会社の方へ悪いようだったら」
「それは叔父さん、いいんです」
私は支度を急がせた。
雪江は鏡台に向かって顔を作っていたが、やがて派手な晴衣を引っぴろげたまま、隣の家へ留守を頼みに行ったりした。ちょうど女中が見つかったところだったが、まだ来ていなかった。
「叔父さんのお蔭で、二人いっしょに遊びに出られますのえ。今日が新婚旅行のようなもんだっせ」雪江はいそいそしながら、帯をしめていた。顔にはほんのり白粉《おしろい》がはかれてあった。
「ほう、綺麗《きれい》になったね」私はからかった。
「そんな着物はいっこう似あわん」桂三郎はちょっと顔を紅くしながら呟いた。
「いくらおめかしをしてもあかん体や」彼はそうも言った。
私たちはすぐに電車のなかにいた。そして少し話に耽っているうちに、神戸へ来ていた。山と海と迫《せま》ったところに細長く展《ひろ》がった神戸の町を私はふたたび見た。二三日前に私はここに旧友をたずね
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