。
「新さん、じゃ私これでおつもりよ。」とお国は猪口《ちょく》を干して渡した。
お作が黙ってお酌をした。
「お作さんにも、大変お世話になりましたね。」とお国は言い出した。
「いいえ。」とお作はオドついたような調子で言う。
「あちらへ行ったら、ちっとお遊びにいらして下さい……と言いたいんですけれどね、実は私は姿を見られるのもきまりが悪いくらいのところへ行くんですの。これッきり、もうどなたにもお目にかからないつもりですからね。」
お作はその顔を見あげた。
酔漢《よっぱらい》はもう出たと見えて、店が森《しん》としていた。生温《なまぬる》いような風が吹く晩で、じっとしていると、澄みきった耳の底へ、遠くで打っている警鐘の音が聞えるような気がする。かと思うと、それが裏長屋の話し声で消されてしまう。
「ア、酔った!」とお国は燃えている腹の底から出るような息を吐《つ》いて、「じゃ新さん、これで綺麗にお別れにしましょう。酔った勢いでもって……。」と帯の折れていたところを、キュと仕扱《しご》いてポンと敲《たた》いた。
「じゃ、今夜立つかね。」新吉は女の目を瞶《みつ》めて、「私《あっし》送ってもいいんだが……。」
「いいえ。そうして頂いちゃかえって……。」お国はもう一度猪口を取りあげて無意識に飲んだ。
お国は腕車《くるま》で発《た》った。
新吉はランプの下に大の字になって、しばらく寝ていた。お国がまだいるのやらいないのやら、解らなかった。持って行きどころのない体が曠野《あれの》の真中に横たわっているような気がした。
大分経ってから、掻巻《かいま》きを被《き》せてくれるお作の顔を、ジロリと見た。
新吉は引き寄せて、その頬にキッスしようとした。お作の頬は氷のように冷たかった。
* * *
「開業三周年を祝して……」と新吉の店に菰冠《こもかぶ》りが積み上げられた、その秋の末、お作はまた身重《みおも》になった。
底本:「日本の文学9 徳田秋声(一)」中央公論社
1967(昭和42)年9月5日初版発行
1971(昭和46)年3月30日第5刷
入力:田古嶋香利
校正:久保あきら
2002年1月30日公開
青空文庫作成ファイル:
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