た。
 お作も急に張合いがなくなって来た。新吉の顔を見るのも切ないようで、出来るだけ側に寄らぬようにした。昼飯の時も、黙って給仕をして、黙って不味《まず》ッぽらしく箸を取った。新吉がふいと起ってしまうと、何ということなし、ただ涙が出て来た。二時ごろに、お作はちょくちょく着に着替えて、出にくそうに店へ出て来た。
「あの、ちょっと小石川へ行って来てもようございますか。」とおずおず言うと、新吉はジロリとその姿を見た。
「何か用かね。」
 お作ははっきり返辞も出来なかった。
 出ては見たが、何となく足が重かった。叔父に厭なことを聞かすのも、気が進まない。叔父にいろいろ訊かれるのも、厭であった。叔父のところへ行けないとすると、さしあたりどこへ行くという的《あて》もない。お作はただフラフラと歩いた。
 表町を離れると、そこは激しい往来であった。外は大分春らしい陽気になって、日の光も目眩《まぶ》しいくらいであった。お作の目には、坂を降りて行く、幾組かの女学生の姿が、いかにも快活そうに見えた。何を考えるともなく、歩《あし》が自然《ひとりで》に反対の方向に嚮《む》いていたことに気がつくと、急に四辻《よつつじ》の角に立ち停って四下《あたり》を見廻した。
 何だか、もと奉公していた家《うち》がなつかしいような気がした。始終|拭《ふ》き掃除《そうじ》をしていた部屋部屋のちんまり[#「ちんまり」に傍点]した様子や、手がけた台所の模様が、目に浮んだ。どこかに中国訛《ちゅうごくなま》りのある、優しい夫人の声や目が憶い出された。出る時、赤子であった男の子も、もう大きくなったろうと思うと、その成人ぶりも見たくなった。
 お作は柳町まで来て、最中《もなか》の折を一つ買った。そうしてそれを風呂敷に包んで一端《いっぱし》何か酬《むく》いられたような心持で、元気よく行《ある》き出した。
 西片町|界隈《かいわい》は、古いお馴染《なじ》みの町である。この区域の空気は一体に明るいような気がする。お作は※[#「木+要」、第4水準2−15−13、43−下段−3]《かなめ》の垣根際《かきねぎわ》を行《ある》いている幼稚園の生徒の姿にも、一種のなつかしさを覚えた。ここの桜の散るころの、やるせないような思いも、胸に湧《わ》いて来た。
 家は松木といって、通りを少し左へ入ったところである。門からじきに格子戸で、庭には低い立
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