…。」といいわけしていた。
「なあに、僕だって、何を知ってるもんか、でたらめさ。」と笑った。
「今夜はマア疲れ直しに大いに飲んでくれ給え。君が第一のお客様なんだからね。」
新吉はこの晴れ晴れしい席に、親戚《みより》の者と言っては、ただの一人もないのを、何だか頼りなくも思った。どうかこうかここまで漕《こ》ぎつけて来た、長い年月《としつき》の苦労を思うと、迂廻《うねり》くねった小径《こみち》をいろいろに歩いて、広い大道へ出て来たようで、昨日《きのう》までのことが、夢のように思われた。これからが責任が重いんだという感激もあった。明るい、神々しいような燈火《ともしび》が、風もないのに眼先に揺《ゆら》いで、新吉の眼には涙が浮んで来た。花のような自分の新妻《にいづま》が、不思議の縁の糸に引かれて、天上からでも降りて来るような感じもあった。
「しかしもう来そうなものだね。」と小野は膝《ひざ》のうえで見ていた新聞紙から目を離して、「ひどく思わせぶりだな。」と生あくびをした。
「そうですね。」
「けど、まだ暮れたばかりですもの。」と他《ほか》の二人も目を見合わせて、伸び上って、店口を覗《のぞ》いた。店は入口だけ残して、後は閉めきってある。小僧は火の気のない帳場格子の傍《わき》に坐って、懐手をしながら、コクリコクリ居睡《いねむ》りをしていた。時計がちょうど七時を打った。
小野と新吉とが、間もなく羽織袴を着けて坐り直した時分に、静かな宵《よい》の町をゴロゴロと腕車《くるま》の響きが、遠くから聞え出した。
「ソラ来た!」
小野は新吉と顔を見合って起《た》ち上った。他の両人《ふたり》も新吉も何ということなし起ち上った。
新開の暗い街を、鈍《のろ》く曳《ひ》いて来る腕車《くるま》の音は、何となく物々しかった。
四人は店口に肩をならべ合って、暗い外を見透《みすか》していた。向うの塩煎餅屋《しおせんべいや》の軒明りが、暗い広い街の片側に淋しい光を投げていた。
六
新吉が胸をワクワクさせている間に、五台の腕車が、店先で梶棒《かじぼう》を卸《おろ》した。真先に飛び降りたのは、足の先ばかり白い和泉屋であった。続いて降りたのが、丸髷頭《まるまげあたま》の短い首を据えて、何やら淡色《うすいろ》の紋附を着た和泉屋の内儀《かみ》さんであった。三番目に見栄《みば》えのしない小躯《こがら》
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