むき》になつて、『お大姐さんを瞞《だま》して見やがれ、唯は置かねえから。』
松公は相渝《あひかは》らずニヤ/\してゐたが、此女の毒口にかゝつては、堪らぬことを知つてゐるので、
『アヽ好《い》いよ、好いつてことよ。だが遲くなつたら、行かないかも知れねえよ。』
『まさか、一時二時まで出前がありやしまいし。加之《それに》此頃は夜が長いよ。』
『眞實《ほんとう》だ。』と松公は呟きながら、通《とほり》を突切つてしまふ。
『畜生《ちきしやう》!』とお大は無上に胸が焦燥《いら/\》して、『莫迦にしてら』と突拍子な聲を出しながら、スタ/\歩出す。
細い路次《ろじ》を通つて、宅《うち》の前まで來ると、表の戸は一昨日《おとゝひ》締めて行つたまゝである。何處をほつき※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐたのか、宛然《まるで》夢中で、自分にも明瞭《はつきり》覺《おぼへ》がない。が、今は淺草に住つてゐる友達と、一昨日《おとゝひ》一日公園をぶら/\遊んで、其晩|其處《そこ》で泊つたことは確である。昨日《きのふ》は一日、芝で古道具屋をしてゐる叔母の處へ行つて、散々《さんざ》ツぱら姉の棚卸《たなおろ》しや、自分の自惚《のろけ》やら愚痴やら並べて、其晩|寄席《よせ》へ連出したことも確である。今日は日比谷の散歩やら、芝居の立見やら、滿《つま》らなく日を暮して、お終《しまひ》に床屋へ入込《はいりこ》んで今まで油を賣つてゐたのであるが、氣がついて見ると、腹はもう噛《かみ》つくやうに減《へ》つてゐる。
戸をあけて宅《うち》へ入らうとすると、闇の中から、哀《あはれ》な細い啼聲《なきごゑ》を立てゝ、雨にビシヨ/\濡れた飼猫の三毛が連《しきり》に人可懷《ひとなつかし》さうに絡《からま》つて來る。
お大はハツと思つたが、小煩《こうるさ》くなつて、
『チヨツ煩《うるさ》い畜生《ちきしやう》だね。いくら啼いたつて、もう宅《うち》にや米なんざ一粒だつて有りやしないよ。お前よりか、此方《こつち》が餘程《よつぽど》餒《ひもじ》いや。』と呶鳴《どな》りながら、火鉢と三味線の外、何《なん》にもない上《うへ》へ上つて行く。
で、手撈《てさぐ》りに、火鉢の抽斗《ひきだし》からマツチを取出すと、手捷《てばしこ》く摺《すり》つけて、一昨日《おとゝひ》投出《ほうりだ》して行つたまゝのランプを、臺所《だいどこ》の口から持つて來て、火を點《つ》けたが、もう何をする勇氣もなく、取放《とりツぱな》しの蒲團の上に、疲れた重い體をヅシンと投出したと思ふと、憤《じ》れつたさうに泣いて居た。
三毛は暫く其處らをウソ/\彷徨《さまよ》うてゐたが、旋《やが》て絶望したのか、降連《ふりしき》る雨のなかを、悲しげな泣聲が次第に遠くへ消えて行つた。
底本:「明治文學全集68 徳田秋聲集」筑摩書房
1971(昭和46)年
入力:網迫
校正:渡瀬淳志
1999年2月12日公開
2006年1月6日修正
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