あいさつ》したものか、それともこのまま富士見へ帰ったものかと、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》した。ホテルもよかったが、父子《おやこ》二人きりよりか寛《くつろ》ぎがつきそうで、やはり銀子がいたのでは物が歯に挾《はさ》まったようであり、銀子も父子|揃《そろ》っているのは、傍《はた》で見る目にも羨《うらや》ましそうであったが、何となし相手の気持をもって行かれそうな感じであった。嫉妬《しっと》を感ずる理由は少しもなかったが、たまに外出した均平の帰りが遅かったりすると、すぐ子供たちのことが頭脳《あたま》に浮かぶのであった。
 銀子が初めて不断着のままで、均平の屋敷を訪れた時、彼女は看板をかりていた家《うち》の、若い女主《おんなあるじ》と一緒であった。女主は誕生を迎えて間もない乳呑《ちの》み児《ご》を抱いていた。
 ちょうど郁子の姉が監視に来ていたところで、廻り縁を渡って行く二人の後ろ姿を見、てっきり均平の情人が、均平の子供を背負《しょ》いこんで来たものと推断し、わざとひそかに庭へおりて、植込みの隙間《すきま》から、二人の坐っている座敷の方を覗《のぞ》いて見たりした。
 姉は均平に実否《じっぴ》を糾《ただ》そうともしず、その推定を良人《おっと》にも話せば、三村の老母にも宣伝し、後で大笑いになったこともあったが、その時銀子たちを送って出た女中の感じもよくなかったし、目にみえぬ家庭の雰囲気《ふんいき》も険悪であった。ちょうど帰りぎわに均平に送られて、玄関へ出て来た時、ちろちろと飛び出して来たのは、九つか十の加世子で、誰かが窘《たしな》めるように「加世子さんいけません」と緊張した小声で言っていたのが、銀子の耳に残った。
 銀子はちらとそのことを思い出し、あながちにそのためとも言えなかったが、強《し》いて加世子を引き留める気にもなれなかった。
「風呂《ふろ》へでも入って、ゆっくりしていらしたらどう。」
「ええまた。黙って帰っても悪りんですけれど、あまり遅くなっても。」
「そうお。」
 加世子は女中に切符を買わせ、もう一度銀子にお辞儀をして、改札口から入って行ったが、銀子はいつまでもそこに立っていた。還《かえ》して悪いような気もした。
 やがて列車が入って来て、加世子たちの乗りこむのが見え、乗りこんでからも、窓から顔を出して軽く手を振った。思い做《な》しか、涙をふいたようにも見えた。銀子も手を振った。
 ホテルへ帰ると、均平はちょうど一ト風呂《ふろ》浴びて来たところであった。
「どうした?」
「方々買いものして駅で別れてしまいましたわ。」
「そう。」
 均平は椅子《いす》に腰かけ、煙草《たばこ》にマッチを擦《す》ったが、侘《わび》しい顔をしていた。
「帰るというものを、強いて引っ張って来ても悪いと思ったから。でも富士屋で曹達水《ソーダすい》呑《の》んだり何かして。」
「まあいいさ。一度|逢《あ》っておけば。」
 そう言って均平も顔に絡《まつ》わる煙草の煙を払っていた。

    時の流れ

      一

 均平がこの町中の一|区劃《くかく》にある遊び場所に足を踏み入れた時は、彼の会社における地位も危なくなり、懐《ふところ》も寂しくなっていた。銀子はちょっと逢ったところでは、ウェーブをかけた髪や顔の化粧が、芸者らしくなく、態度や言葉|遣《づか》いもお上品らしく、いくらか猫《ねこ》を被《かぶ》っていた。芸者がることは彼女も嫌《きら》いであり、ただ結婚の破綻《はたん》で、女にしては最も大切な時代の四年を棒に振ったことは、何と言っても心外であり、再び振り返ろうとも思わなかった。元の古巣へ逆戻りした以上、這《は》いあがるためには何か掴《つか》まなければならなかった。この世界では、二十二三ともなれば、それはもう年増《としま》の部類で、二十六七にもなれば、お婆《ばあ》さんの方で、若い妓《こ》の繋《つな》ぎに呼ばれるか、遊びに年期の入った年輩者の座持ちに呼ばれるくらいが落ちであり、男に苦い経験のある女が男を警戒するように女に失敗した男は用心して深入りしず、看板借りともなれば、どんな附き物があるか解《わか》らなかった。しかし銀子は世帯《しょたい》崩れのようには見えず、顔にもお酌《しゃく》時代の面影が残っており、健康な肉体の持主であった。
「君はこの土地の人のようには見えんね、それに芸者色にもなっていないじゃないか。」
「商売に出ていたのは、前後で六年くらいのものですから。それも半分は芳町《よしちょう》でしたの。」
 その時分は銀子もまだ苦い汁《しる》の後味が舌に残りながら、四年間|同棲《どうせい》した、一つ年上の男のことが、綺麗《きれい》さっぱりとは清算しきれずにいた。均平の方が一時代も年が上なので、銀子は物解りのいい相手のように思われるせいか、ある時、
「二三日前
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