《えちご》の親類の織元から、子供たちに送ってくれた銘仙《めいせん》を仕立てて着せた時の悦びも、思い出すと涙の種であった。唐人髷《とうじんまげ》に結って死にたいと言っていたので、息を引き取ってから、母は頭を膝《ひざ》のうえに載せ、綺麗《きれい》に髪を梳《す》いて唐人髷に結いあげ、薄化粧をして口紅をつけたりした。その当座線香の匂いが二階へも通い、銀子はいやな思いにおそわれたが、まだ下に寝ているような気がしたり、春よしの路次を出て行く後ろ姿が見えたりした。「あの子はあれだけの運さ。悔やんでも仕方がない。それよりお前の体が大切だよ。」
母は言っていたが、銀子も一度死神に憑《つ》かれただけに、助かってそう有難いとも思えず、死ぬのも仕方がないと思っていた。
もうここまで来れば大丈夫だから、予後の静養に温泉へでも行ってみるのもよかろうと、医師が言うので、六月の末母につれられて伊香保《いかほ》へ行ってみたが、汽車に乗ってもどこか気細さが感じられ、手足の運動も十分とは行かず、久しぶりで山や水を見ても、それほど楽しめなかった。
伊香保はぼつぼつ避暑客の来はじめる時節で、ここは実業界の名士に、歌舞伎《かぶき》俳優や花柳界など、意気筋の客で、夏は旅館も別荘も一杯になり、夜は石の段々を登り降りする狭い街《まち》が、肩の擦《す》れ合うほどの賑《にぎ》わいなのだが、銀子の行った時分には、まだそれほどでもなく部屋は空《す》いていた。
銀子は看護婦に切られた髪が、まだ十分に伸びそろわず、おまけに父親の姉が、生命《いのち》の代りに生髪を鎮守の神に献《ささ》げる誓いを立てたというので、本復した銀子の髪の一束を持って行ってしまったので、恥ずかしいくらい頭が寂しかったが、それよりも湯からあがると、思いのほかひどい疲れを感じ、段々を登るにも母の手を借りなければならなかった。
「お前|一時《いっとき》に入らん方がいいよ。ああどうして、ここは湯が強いんだから、そろそろ体を慣らさんけりゃ。」
母は言っていたが、二日三日たっても、湯に馴染《なじ》めそうには見えず、花の萎《しぼ》むような気の衰えが感じられるのだったが、湯を控えめにしていても、血の気の薄くなった躰《からだ》に、赤城《あかぎ》おろしの風も冷たすぎ、肺炎がまたぶり返しそうな気がしてならなかったので、五日目の晩帰ることに決め、翌日の朝電車で山をおりた。
そのころになると、春よしのお神にも慾が出て来て、もう少し養生したら、気分のよい時、いずれ梅村さんも近いことだから、遊びに来てはどうかと言うのだったが、引き裂いた証書は実は写しで、本物は担保に取った大場の手元にあるのはとにかくとして、その言い分にも理窟《りくつ》がないわけでもなく、あの病気のひどい絶頂に、夜昼をわかず使った氷代だけでも、生やさしい金ではなかった。
「かかったものを全部証書にとは言いません。気の向く時ぼつぼつお座敷へ出てもらえば、結構なんですがね。」
十五
そのころ、春よしのお神が、裏木戸の瀬川さんと呼んでいる芝居ものの男が、ちょいちょい春よしへ現われ、場所を取ってくれたり、切符をもって来てくれたりした。裏木戸と言っても、瀬川はもとより俳優の下足を扱う口番でもなく、無論頭取部屋に頑張《がんば》っている頭取の一人でもなかったが、香盤《こうばん》の札くらいは扱っており、役者に顔が利いていた。お神が切れるところから、彼は来るたびに何かおつな手土産《てみやげ》をぶら下げ、時には役者の描《か》き棄《す》てた小幅《しょうふく》などをもって来て、お神を悦に入らせるのに如才がなかった。
「こちらは何と言っても玉|揃《ぞろ》いで、皆さんお綺麗《きれい》でいらっしゃいますよ。」
彼はそんなお世辞を言い、
「そのうち私も一つどこかでお呼びしますから、皆さんお揃いでいらして下さい。」
と言うので、お神も反《そ》らさず、
「どうぞぜひ、ほかはどうか分かりませんが、このごろ家《うち》は閑《ひま》で困るんですよ。」
そのころ大阪ですばらしい人気を呼んだ大衆劇の沢正《さわしょう》が、東京の劇壇へ乗り出し、断然劇壇を風靡《ふうび》していたが、一つは水際《みずぎわ》だった早斬《はやぎ》りの離れ業《わざ》が、今までのちゃんばらに一新紀元を劃《かく》したからでもあり、机|龍之介《りゅうのすけ》や月形半平太が、ことにも観衆の溜飲《りゅういん》を下げていた。
後から考えれば、すべては諜《しめ》し合わされた狂言の段取りであったようにも思えるのだったが、その時には銀子もぼんやりしていて、格別芝居好きでもないので、進んで見ようとも思わなかったが、沢正の人気は花柳界にも目ざましいので、ある日お神が瀬川に電話をかけて、場所を取ってもらうようにというので、銀子はその通りにして、
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