うからいけないんだ。いつ僕がお前を翫具にしたと言うんだ。このくらい愛していれば沢山じゃないか。」
 そのころ銀子は、箱崎町《はこざきちょう》の本宅へ還《かえ》る若林を送って、土州橋の交番の辺《あたり》まで歩き、大抵そこで別れることにしていたが、交番の巡査も若林を見ると、お互いににっこりして挨拶《あいさつ》するくらい、それは頻繁《ひんぱん》であった。
「お前《ま》はんそれじゃ情が薄いというもんやないか。あすこから一停留所も行けば、そこがわーさんのお宅や。送りましょうか送られましょうか、せめて貴方《あなた》のお門《かど》までというどどいつ[#「どどいつ」に傍点]の文句を、お前はんしりへんのか。」
 とお神にいわれ、宅まで送ることにしたが、若林の女房が母の病気見舞でちょうど田舎《いなか》へ帰っていたので、誰もいないから、ちょっと寄ってみないかと、若林が言うので、銀子も彼の家庭生活の雰囲気《ふんいき》に触れたくはなかったが、ついて行ってみた。ここも通りに向いた方は、事務机や椅子《いす》がおいてあり、奥は六畳の茶の間と八畳の居間で、特に銀子の羨《うらや》ましく思えたのは、文化的に出来ている台所と浴室であったが、二階にも父母の肖像のかかっている八畳の客間に、箪笥《たんす》の並んでいる次ぎの間があり、物干もゆっくり取ってあった。あたかも銀子が不断|頭脳《あたま》に描いていたような家で、若林は客間の方で銀子に写真帖などを見せ、紅茶を御馳走《ごちそう》したが、自分の家《うち》でいながら、人の家へでも来たようなふうなので、銀子も戸惑いした猫《ねこ》のように、こそこそ帰ってしまった。それに湯殿の傍《そば》にある便所で用を足すと、手洗のところに自分の紋と芸名を染め出した手拭《てぬぐい》が、手拭掛けにかけてあり、いやな気持だった。
「いやね、私の手拭便所に使ったりして。」
 銀子が面白くなさそうに言うと、
「うむ、女房も薄々感づいているんだよ。」
 と若林も苦笑していた。
 夏のころも二人は国技館のお化け大会を見に行った帰りに、両国橋のうえをぶつぶつ喧嘩《けんか》をしながら、後になり先になりして渡って来たが、米沢町の処《ところ》に箪笥屋があり、鏡台も並んでいるので、銀子は千葉以来の箪笥が貧弱なので、一つほしいと思っていたところなので、
「私鏡台が一つ欲しいわ。」
 と言うと、若林も、
「どうぞお買いなさいまし。」
「入って見てもいい?」
「ああいいよ。どれでもいいのを。」
「わーさん見てよ。」
「君の好きなの買えばいいじゃないか。ただし買うならいいのにおし。」
 若林が金をくれるので、銀子は店に入り、あっちこっち見てあるき、
「ねえ――」と振りかえると、彼の姿は見えず、表へ出て見ても影も形も見えなかった。
 彼はそういうことには趣味をもたず、何を買うにも金を吝々《けちけち》しないで、米沢町のどこの店に欲しい小紋の羽織が出ているとか、誰某《たれそれ》のしていたような帯が買いたいとか、または半襟《はんえり》、帯留のような、買ってもらいたいものがあり、一緒に行って見てほしいと思っても、女の買物は面倒くさいから御免だとばかりで、店頭《みせさき》で余計なものを買わせられるよりもと思って、ほどよく金はくれはするが、一度も見立ててくれたことはなかった。
「それが上方気質《かみがたかたぎ》というものなのかしら。」
 銀子は思うのであったが、時に一緒に歩いている時、コンパクトとか下駄《げた》とか、珍しく見立てて買ってくれるかと思うと、決まってそれとほぼ同値の、またはそれより少し優《ま》しの類似の品を一緒に買うのであった。もちろんそれは妻への贈り物であり、彼自身の心の償いであったが、そのたびに銀子はげっそりした。
「何だこいつ。やっぱり私は附けたりなんだ。」
 彼女は寂しくなり、買ったものを地面に叩《たた》きつけたくも思うのだった。
 そのころに、銀子は製菓会社の社長|永瀬《ながせ》に、別の出先で時々呼ばれ、若林よりずっと年輩の紳士だったので、何かしっくりしないものを感じ、どうかと思いながら、疎《おろそ》かにもしなかった。

      七

 この製菓会社も、明治時代から京浜間の工場地帯に洋風製菓の工場をもち、大量製産と広範囲の販路を開拓し、製菓界に重きを成していたもので、社長の永瀬は五十に近い人柄の紳士だったが、悪辣《あくらつ》な株屋のE―某《なにがし》とか、関東牛肉屋のK―某ほどではなくても、到《いた》る処《ところ》のこの世界に顔が利き、夫人が永らく肺患で、茅ヶ崎《ちがさき》の別荘にぶらぶらしているせいもあろうが、文字通り八方に妾宅《しょうたく》をおき、商売をもたせて自活の道をあけてやっていた。それも彼の放蕩癖《ほうとうへき》や打算のためとばかりは言えず、枕籍《ちん
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