らなかった。しかしまた籍のことなども言っていたし、初めて逢《あ》った自分に愛情を感じたように取れば取れないこともなく、悪く取るのは僻《ひが》みだとも思えるのであった。
 倉持は空腹を感じていたので、料理と酒を註文《ちゅうもん》し、今母のいた部屋で、気仙沼《けせんぬま》の烏賊《いか》の刺身で呑《の》みはじめ、銀子も怏々《くさくさ》するので呑んだ。倉持の話では、めったに町へ出たことのない母親が、倉持がちょっと役場へ行っている間に、出かけたというので、第六感が働き、来てみると果してそうであった。多分|煙草屋《たばこや》かどこかで聞いて来たものであろうことも、倉持は想像していた。
「何といっていた?」
「そうね。詰まるところ門閥も高いし、血統も正しいから、私たちのような身分のないものは、家へ入れられないというようなことじゃないの。」
「そうはっきり言ったかい。」
「家へ入るのは駄目だけれど、どこか一軒外に家をもつなら、そうしてあげてもいいといったような話もあったわ。」
「君は何と言ったの?」
「そう言われて、私もそれでもいいから、お願いしますとも言えないでしょう。だから考えさしていただきますと、返辞しておいたわ。」
「しかし大丈夫だと思うよ。母も株券持ち出し一件でほ、大分驚いたようだからね、今すぐ家へ入れるということはできなくとも、外において世話すると言うんだから結局僕がちょいちょい家をあけることになって、母も困るんだ。つまり時機の問題だよ。――君のことは何とか言わなかった。印象はどうだった。」
「そんなことわからないわ。」
「母の印象は?」
「そうね、一度ぐらいじゃ解らないけれど、何だか悪くなかったわ。入って来ても、周囲が煩いから、かえって不幸になるというようなことも言ったわ。そう言われると、何だかそんな気もするけれど、御大家というものは、一体そんなむずかしいものなの。」
「そんなこと気にすれば、どこの家だって同じだよ。僕の家なんか母と僕と二人きりで、小姑《こじゅうと》一人いるわけじゃないんだから、僕さえしっかりしていれば、誰も何とも言やしないよ。君は花でも作って、好きな本でも読んでいればいいさ。少しは母の機嫌《きげん》も取って、だんだん家事向きの勉強もしてもらわなきゃなるまいと思うがね。それに君は田舎《いなか》が好きだと言っていたね。」
「え、好きよ、お父さんもお母さんも、田舎でお百姓をしたり、養蚕したりしていたんですもの。」
「僕の家じゃ、畑仕事はしてもらう必要はないけれど、養蚕や機織《はた》くらいは覚えておいてもいいね。」
 飯を喰《た》べながら、そんな話をしているうちに、銀子は気分が釈《ほぐ》れ、それほど悲観したことでもないと、希望を取り返すのだった。
 夜になって、銀子は風呂《ふろ》に入り、土地の習慣なりに、家へ着替えに行くと、主人夫婦もちょうど奥で晩酌《ばんしゃく》を始めたところで、顔を直している銀子に声をかけた。
「寿々ちゃん、あんた今日倉持さんのお母《っか》さんに逢《あ》っただろう。」
「逢ったわ。」
「お母さん帰りに、見番へ寄って行ったそうだよ。」
「そう。」
「貴女《あなた》のことをね、顔にぺたぺた白粉《おしろい》も塗らず、身装《なり》も堅気のようで、あんな物堅い芸者もあるのかと、飛んだところで、お讃《ほ》めにあずかったそうよ。」
 冷やかし半分にお神は言うのだった。

      十四

 何かといっているうちに、その年も暮れてしまい、銀子は娘盛りの十九の春を迎えたわけだったが、一年の契約が切れただけでも、いくらか気が楽になり、二度目の冬だけに、陰鬱《いんうつ》な海や灰色の空にも駭《おどろ》かず、真気山《まきやま》のがんちょ参りにも多勢の人に交じって寒気の強い夜中の雪の山を転《ころ》がりながら攀《よ》じ登り、言葉もアクセント違いの土地の言葉をつかって、嗤《わら》われたりしたが、不断親しく往来をしている、看護婦の小谷さんとか、内箱の婆《ばあ》やなどの土地言葉には、日常的な細かい点ではどうしても意味の取れないところもありがちで、解《わか》ったふりで応答しているよりほかなかった。
 看護婦の恋愛には別に進展もなく、現実の生活に追われがちなその日その日を送り、学生が帰ってしまえばしまったで、いつとはなし音信も途絶えてしまった。彼女は俸給《ほうきゅう》のほとんど全部を親に取りあげられ、半衿《はんえり》一つ白粉《おしろい》一|壜《びん》買うにも並々ならぬ苦心があり、いつも身綺麗《みぎれい》にしている芸者の身の上が羨《うらや》ましくなり、縹緻《きりょう》もまんざらでないところから、時々そんな気持になることもあった。
「傍《はた》で見るほど私たちも楽じゃないのよ。私だって親や妹たちのために、こんな遠い処《ところ》まで来て、借金
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