ありそうね。」
 その時軽く戸をノックしたと思うと、本家の養女の寿々千代の愛子が顔を出し、続いて見知らぬ男が一人戸口に現われた。
「こないだお話しした私の彼氏紹介するわ。」
 彼女はそう言って、真珠船の船員である滝川という許婚《いいなずけ》を紹介した。
「こちら貴方《あなた》が大好きだといった銀子さんよ。」
「ああ、そうですか。初めまして、僕はこういう海賊みたいな乱暴ものです。」
 彼は分け目もわからぬ蓬々《ぼうぼう》した髪を被《かぶ》り、顔も手も赤銅色《しゃくどういろ》に南洋の日に焦《や》け、開襟《かいきん》シャツにざぐりとした麻織の上衣《うわぎ》をつけ、海の労働者にふさわしい逞《たくま》しい大きな体格の持主だが、しかし大きからぬ眼眸《まなざし》に熔《と》けるような愛嬌《あいきょう》があり、素朴《そぼく》ではあるが、冒険家の特徴とでも言うのか、用心深そうな神経がぴりぴりしていそうに見えた。
 銀子はちょっと勝手が違った感じだったが、最近しばらくパラオで遊んでいたこの男に、愛子の贈った写真の中に愛子姉妹と並んで銀子も真中ほどに立っており、不縹緻《ぶきりょう》な愛子によって一層引き立って見えるところから、その単純な彫刻的な白い顔が、はしなく異郷にいる滝川の情熱をかき立てたものらしかった。
「真珠を取るんですって?」
「そうです。鼈甲《べっこう》なんかも取りますがね。こんどは何にも持って来ませんでしたけれど……大概良いものは途中で英国人や米国人に売ってしまうんです。」
「どの辺まで出かけるんですの?」
「随分行きますね。委任統治のテニヤン、ヤップ、パラオ、サイパンはもちろん、時々は赤道直下のオーシャン付近からオーストラリヤ近くまでも延《の》しますが、もちろん冒険ですから、運が悪いとやられてしまいます。それに水を汲《く》みに、無人島へ上がることもありますが、下手まごつくと蛮人にやられますね。」
 彼らは往《ゆ》きには小笠原《おがさわら》の父島から、硫黄ケ島《いおうがしま》を通り、帰りにはフィリッピンから台湾方面を廻って九州へ帰航するのであり、滝川はすでに幾度もその船に乗り込み、南洋諸島の風土、物資、島民の生活についてかなりの知識をもっており、南洋庁の所在地パラオには往き帰りに寄港し、政庁筋の歓迎を受けたり、富有な島民の家庭にも招待され、土人独特の料理を饗応《きょうおう》されたこともあった。
「そのまたアイス・クリームのうまさと来たら、持って来れるものなら、ここへもって来て、貴女方に食べさせたいくらいだね。僕今度東京へも寄って来たけれど、あんなアイス・クリームはどこにもないね。」
「そんなおいしいの、食べたいわね。」
「どうです、今度パラオへ行ってみませんか。横浜から二週間で行けますよ。」
「行ってみたいわね。」
 滝川は愛子の養父であり、従って寿々廼家の旦那《だんな》である廻船問屋《かいせんどんや》の主人の甥《おい》であり、この町から出た多くの海員の一人で、中学を出たころすでに南洋に憧《あこ》がれを抱《いだ》き、海軍兵学校の入学試験をしくじってから、そんな船員団の仲間に加わったものだったが、長くこの冒険事業に従事するつもりはなく、二十六歳の現在から、十年余りも働いて、一財産造り、陸へ上がって生涯の方嚮《ほうこう》を決める肚《はら》であった。
 話がはずんているところヘ、今日も罐詰屋《かんづめや》の野良息子《のらむすこ》が顔を出し、ちょっとふてぶてしくも見える青年が、壁ぎわの畳敷きに胡座《あぐら》を組んで葉巻をふかしているのを見て、戸口に躊躇《ちゅうちょ》した。彼はなんという目的もなく、ただ銀子が好きで、分寿々廼家へもひょこひょこ遊びに来、飯を食いに銀子を近所の釜飯屋《かまめしや》へ連れ出し、にやにやしているくらいがせいぜいであった。
 彼は日本橋の国府《こくぶ》へ納める荷物の中に、幾割かのロオズ物があり、それを回収して、場末の二流三流の商店へ卸すために、時々東京へ出るので、このころにもそのついでに、罐詰を土産《みやげ》に、錦糸堀の銀子の家を訪ね、荷はいくらでも送るから、罐詰の店を出してはどうかと、親父《おやじ》に勧めたりしたものだった。

      十

 二週間ほどして、ある朝銀子は病床のうえに起きあがり、タオルを肩にかけて、痒《かゆ》みの出て来た頭の髪をほどき、梳櫛《すきぐし》を入れて雲脂《ふけ》を取ってもらっているところヘ、写真師の浦上が入って来た。八月も終りに近く、驟雨《しゅうう》が時々襲って来て、朝晩はそよそよと、肌触りも冷やかに海風か吹き通り、銀子は何となし東京の空を思い出していた。
 浦上は手足ののんびりした、華車造《きゃしゃづく》りの青年であったが、口元に締りがなく、笑うと上の歯齦《はぐき》が剥《む》き出しになり、
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