、工科出の地質学者であったが、召集されるとすぐ、深くも思い決した体で、心を後に残さないように、日頃愛用していたライカアやレコオドを残らず叩《たた》き壊《こわ》し、潔《いさぎよ》く征途に上ったものだったが、一ト月の後にはノモンハンで挺身《ていしん》奮闘して斃《たお》れてしまった。同じ奉公は奉公に違いなく、町の与太ものの意気もはなはだ愛すべきだが、科学人の白熱的な魂の燃焼も、十分|讃《ほ》め称《たた》えられるべきだと思われた。
均平は長くもこの病室にいなかった。ただ均一を見舞うだけの旅行であったが、逢《あ》ってみると別に話すべきこともなく、今の自分の姿にも負《ひ》け目《め》が感じられ、後は加世子に委《まか》せて、ベランダヘ出て風に吹かれていた。均平はこの年になっても持前のわがままがぬけず、別にこれと言って希望もなく、今後の生活の設計があるのでもなかったが、そうかと言ってそこに全く安住している気にもなれず、絶えず何か焦躁《しょうそう》を感じていた。
「もう帰るとしようか。また来るかも知れないが……。」
汐《しお》を見て均平は椅子《いす》を離れた。
「そうね。」
兄との話の途切れたところで、加世子も言った。
均平は均一の傍へ寄って、痩《や》せた手を握り、
「俺も何か物質的に援助もしたいと思うのだが、今のところその力はない。お前たちのためには、まことに頼りのない父だが、これもどうも仕様がない。辛抱も大事だが金も必要だからね。」
「いや、そんな心配はありません。」
「丈夫になったら、元通り勤めることになってるのだろうね。」
「まあそうです。しかし三年も四年も休んでいると、すベてがそれだけ後《おく》れてしもうわけです。この損失を取り還《かえ》すのは大変です。僕はもし丈夫になったら、今度は方嚮《ほうこう》をかえるつもりです。」
「方嚮をかえるって……。」
「向うで懇意になった映画界の人がいますから、あの世界へ入ってみようかとも思っています。」
「それもいいだろうが、三村の老人や他の皆さんともよく相談することだね。」
「お祖父《じい》さんは僕のことなんか、そう心配していません。」
「とにかく体が大事だ。偉くなる必要もないから、幸福にお暮らしなさい。」
「は。」
均一は素直に頷《うなず》いた。
均平は思い切って病室を出てしまった。何か足が重く、心が後へ残るのだったが、わざと
前へ
次へ
全154ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング