夏らしい感じだった。そうしているうちに加世子も女中と一緒に、タオルや石鹸《シャボン》をもって降りて来た。
二階へ上がると部屋もざっと掃除がすんでおり、均平は縁側のぼろ椅子《いす》に腰かけて、目睫《もくしょう》の間に迫る雨後の山の翠微《すいび》を眺めていた。寝しなに胸を圧していたあの感傷も迹《あと》なく消えた。
不思議なことに今朝《けさ》になってみると、田舎《いなか》の兄のやっている陶器会社が破産状態に陥った時、相談を持ちかけられ、郁子を説得したうえ、万に近い金をようやく融通して急場を救ったことがあり、後に紛紜《いざこざ》が起きて困ったことがあったが、結局解決がつかずじまいであったことが、今朝の清澄な心にふと思い出された。それで三村が均平を警戒しはじめ、郁子も間へ挾《はさ》まって困っていた事情や径路が、古い滓《おり》が水面へ浮かんで来たように思い出されて来た。しかし思い出してみても今更どうにもならないし、どうかする必要もなかった。
「俺《おれ》もよほど弱気になった。」
均平は嘆息した。ひところ金を浪費して、荒れまわった時のことを考えると、とにかく勇気があった。
内へ入って茶をいれているところへ、加世子が帰って来た。
「今この人と決めたんですけれど、今日は午前中病院へ行って、お昼から上諏訪へ遊びに行こうと思いますの。幾日もこんなところにいて鬱々《くさくさ》して来たから。それに少し買いたいものもありますの。」
加世子は鏡の前で顔にクリームを塗りながら、言っていた。
「上諏訪! ああそう。」
均平も頷《うなず》いた。
「お父さまもいらっしゃるでしょう。私たちお接待のつもりで……。」
加世子はふ、ふと笑っていた。
「それあありがとう。俺も光栄だよ。」
「光栄だなんて……。上諏訪へいらしたことがおありになって?」
「いや、こっち方面はどこも知らない。旅行はあまり好きじゃなかったし、隙《ひま》もなかった。しかし、上諏訪へ行くんだったら、ちょっと訪ねたい処《ところ》もある。」
均平は匂わした。
「どこですの。」
「ホテルだ。」
「ホテルに誰方《どなた》か……。」
加世子は小声で言ったが、気がついたらしく口をとじた。
「何なら紹介しよう。」
「ええ。」
食事がすんで療養所へ行ったのはもう九時であった。療養所はこの狭い高原地の、もっとも高燥な場所を占めていたが、考え
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