の妾《めかけ》であり、棄《す》てられて毒を仰いで死にきれず、蘇生《そせい》して東京へ出て来たものだったが、気分がお座敷にはまらず、金遣《かねづか》いも荒いところから、借金は殖《ふ》える一方であり、苦しまぎれの自棄《やけ》半分に、伊沢にちょっかいを出したものだった。
 さんざんに銀子とやり合った果てに、太々《ふてぶて》しく席を蹴立《けた》てて起《た》ち、段梯子《だんばしご》をおりる途端に裾《すそ》が足に絡み、三段目あたりから転落して、そのまま気絶してしまった。

      十一

 二月の半ば、余寒の風のまだ肌にとげとげしいころ、銀子は姉芸者二人に稲福、小福など四五人と、田所町《たどころちょう》のメリンスの風呂敷問屋《ふろしきどんや》の慰安会にサ―ビスがかりを頼まれ、一日|鶴見《つるみ》の花月園へ行ったことがあった。その時分には病院へ担《かつ》ぎこまれた染福も、酔っていたのがかえって幸いで、思ったほどの怪我《けが》でもなく、二週間ばかりで癒《なお》ったが、家《うち》へ還《かえ》りにくく、半ば近くになっていた前借を踏んで、どことも知らず姿を消してしまい、新橋から住み替えて来た北海道産の梅千代という妓《こ》も、日本橋通りの蝙蝠傘屋《こうもりがさや》に落籍《ひか》され、大観音の横丁に妾宅《しょうたく》を構えるなど、人の出入りが多く、春よしも少し陣容が崩れていた。子供に思いやりのないお神の仕方も確かに原因の一つで、食事時にはきまって冷たい監視の目を見張り、立膝《たてひざ》で煙管《きせる》を喞《くわ》えながら盛り方が無作法だとか、三杯目にはもういい加減にしておきなさいとか、慳貪《けんどん》に辱《はずか》しめるのもいやだったが、病気した時の苛酷《かこく》な扱い方はことに非人間的であり、銀子も病毒のかなり全身に廻っていることを医者に警告されながら、処置を取らず、若林が妻と三人同時に徹底的な治療に努めたので、このごろようやく清浄を取り返すことができたのだった。
 その日も銀子は、朝から熱を感じ悪寒がしていた。体が気懈《けだる》く頭心も痛かった。寒さ凌《しの》ぎに昨夜出先で風呂《ふろ》を貰《もら》い、お神がもう冷《さ》めているかも知れないから、瓦斯《ガス》をつけようというのを、酔っていた彼女はちょっと手を入れてみて、まだ熱そうだったので、そのまま飛びこみ、すっかり生温《なまぬる》にな
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