とい貧しいものでも、腹一杯食べさせることにしていたからで、出先の料亭《りょうてい》から上の抱えが、姐《ねえ》さんへといって届けさせてくれる料理まで子供たちの口には、少しどうかと思われるようなものでも、彼女は惜しげもなく「これみんなで頒《わ》けておあがり」と、真中へ押しやるくらいにしているので、来たての一ト月くらいは、顔が蒼《あお》くなるくらい、餓鬼のように貪《むさぼ》り食べる子も、そうがつがつしなくなるのであった。子供によっては親元にいた時は、欠食児童であり、それが小松川とか四ツ木、砂村あたりの場末だと、弁当のない子には、学校で麺麦《パン》にバタもつけて当てがってくれるのであったが、この界隈《かいわい》の町中の学校ではそういう配慮もなされていないとみえて、最近出たばかりのお酌の一人なぞは、お昼になると家へ食べに行くふりをして、空腹《すきばら》をかかえてその辺をぶらついていたこともたびたびであり、また一人は幾日目かに温かい飯に有りついて、その匂いをかいだ時、さながら天国へ昇ったような思いをするのであった。この子は二人の小さい仕込みと同じ市川に家があるので、大抵兵営の残飯で間に合わすことにしていたが、多勢の兄弟があり、お櫃の底を叩《たた》いて幼い妹に食べさせ、自身はほんの軽く一杯くらいで我慢しなければならないことも、いつもの例で、みんなで彼女たちは彼女たちなりの身のうえ話をしているとき、ふとそれを言い出して互いに共鳴し、目に涙をためながら、笑い崩れるのであった。もちろん銀子にだって、それに類した経験がないことはなかった。彼女は食いしん棒の均平と、大抵一つ食卓で、食事をするのだったが、時には子供たちと一緒に、塗りの剥《は》げた食卓の端に坐って、茄子《なす》の与市漬《よいちづけ》などで、軽くお茶漬ですますことも多かった。そしてその食べ方は、人の家の飯を食べていた時のように、黙祷《もくとう》や合掌こそしないが、どうみても抱えであった時分からの気習が失《う》せず、子供たちの騒々しさや晴れやかさの中で、どこかちんまりした物静かさで、おしゃべりをしたり傍見《わきみ》をしたりするようなこともなかった。
 非常時も、このごろのように諸般の社会相が、統制の厳《きび》しさ細かさを生活の末梢《まっしょう》にまで反映して、芸者屋も今までの暢気《のんき》さではいられなかった。人員の統制が、頭脳《
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