しかし新橋や柳橋に左褄《ひだりづま》を取るものが、皆が皆まで玉の輿《こし》に乗るものとは限らず、今は世のなかの秩序も調《ととの》って来たので、二号として顕要の人に囲われるか、料亭《りょうてい》や待合の、主婦として、悪くすると逆様《さかさま》に金権者流から高利を搾《しぼ》られるくらいが落ちで、ずっと下積みになると、行き詰まれば借金の多いところから、保護法のない海外へ出るよりほかなく、肉を刻まれ骨を舐《しゃ》ぶられても訴えるところがなく、生きて還《かえ》るのは珍らしい方とされた。
 今この民子も玉の輿に乗り損《そこ》ねた一人で、彼女の放浪生活もそれから始まったわけだった。

      二

 彼女は華車《きゃしゃ》づくりで上背《うわぜい》もあり、後ろ姿のすっきりした女だったが、目が細く鼻も小さい割に口の大きい、あまり均齊《きんせい》の取れない長面《ながおもて》で、感じの好い方ではなく、芸もいくらか下地はあったが、もちろん俄仕込《にわかじこ》みで、粒揃《つぶぞろ》いの新橋では座敷の栄《は》えるはずもなく、借金が殖《ふ》える一方なので、河岸《かし》をかえて北海道へと飛び、函館《はこだて》から小樽《おたる》、室蘭《むろらん》とせいぜい一年か二年かで御輿《みこし》をあげ、そちこち転々した果てに樺太《からふと》まで乗《の》し、大泊《おおどまり》から汽車で一二時間の豊原で、有名な花屋に落ち着いたのだったが、東京へ舞い戻って芳町へ現われた時分は、もう三十の大年増《おおどしま》であり、そこで稼いでいるうちに、米屋町《こめやまち》で少しは名前の通った花村という年輩の男を物にし、花村がちょうど妻と死に訣《わか》れて、孤独の寂しさを身にしみて感じていた折なので、家へ入れる約束で、金を引き出し、とにかく自前となって一軒もつことになったのだった。
 I―町へ銀子を見に来た時、一緒に来たのは、彼女が自前の披露目《ひろめ》の前後に抱えた分けの芸者の春次で、春次の来たてには、やっと七輪とお鉢《はち》が台所にあるくらいの創始期であったが、三四年するうちに金主も花村の上手を越した、同じ米屋町の大物がつき、これは色気ぬきの高い利子で資本《もと》を卸し、抱えも殖《ふ》えれば、世帯《しょたい》道具も揃《そろ》い、屋台は小さくても、派手ッ気な彼女の外の受けは悪くなく、世界戦後の好況の潮に乗って、めきめき売り出し
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