力の旺盛《おうせい》なことは疑う余地もなかった。
 パンやスープが運ばれたところで、今まで煙草《たばこ》をふかしながら、外ばかり見ていた均平は、吸差しを灰皿の縁におき、バタを取り分けた。五月の末だったが、その日はひどく冷気で、空気がじとじとしており、鼻や気管の悪い彼はいつもの癖でつい嚔《くさめ》をしたり、ナプキンの紙で水洟《みずばな》をふいたりしながら、パンを※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、323−上1]《むし》っていた。
「ひょっとすると今年は凶作でなければいいがね。」
 素朴《そぼく》で単純な性格を、今もって失わない銀子は、取越し苦労などしたことは、かつてないように見えた。幼少の時分から、相当生活に虐《しいた》げられて来た不幸な女性の一人でありながら、どうかするとお天気がにわかにわるくなり気分がひどく険しくなることはあっても、陰気になったり鬱《ふさ》ぎ込んだりするようなことは、絶対になかった。苦労性の均平は、どんな気分のくさくさする時でも、そこに明るい気持の持ち方を発見するのであった。彼女にも暗い部分が全然ないとは言えなかったが、過去を後悔したり現在を嘆いたりはしなかった。毎日の新聞はよく読むが、均平が事件の成行きを案じ、一応現実を否定しないではいられないのに反し、ともすると統制で蒙《こうむ》りがちな商売のやりにくさを、こぼすようなこともなかった。
「幕末には二年も続いてひどい飢饉《ききん》があったんだぜ。六月に袷《あわせ》を着るという冷気でね。」
 返辞のしようもないので、銀子は黙ってパンを食べていた。
 次の皿の来る間、窓の下を眺めていた均平は、ふと三台の人力車が、一台の自動車と並んで、今人足のめまぐるしい銀座の大通りを突っ切ろうとして、しばしこの通りの出端《ではな》に立往生しているのが目についた。そしてそれが行きすぎる間もなく、また他の一台が威勢よくやって来て、大通りを突っ切って行った。

      二

 もちろん車は二台や三台に止《とど》まらなかった。レストウランの食事時間と同じに、ちょうど五時が商売の許された時間なので、六時に近い今があだかも潮時でもあるらしく、ちょっと間をおいては三台五台と駈《か》け出して来る車は、みるみる何十台とも知れぬ数に上り、ともすると先が閊《つか》えるほど後から後から押し寄せて来るのであった。それはこ
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