るための智慧《ちえ》だと考え、気が動いた。
「清元のお師匠さんよ。」
 この師匠が東京から流れて来て、土地に居ついた事情も親父は知っていた。
「うむ、あの師匠か。子供があるじゃないか。」
「女の子だからいいでしょう。」
「お前話してみたのか。」
「ううん、お父さんよかったら、今日にでも話してみるつもりだわ。いい?」
「ああいい。お前のいいようにしろ。」
 親父も頷《うなず》いた。
 ちょうど山姥《やまうば》がもう少しで上がるところで、銀子はざっと稽古《けいこ》をしてもらい、三味線《しゃみせん》を傍《そば》へおくかおかぬに、いきなり切り出してみた。かつて深川で左褄《ひだりづま》を取っていた師匠は、万事ゆったりしたこの町の生活気分が気に入り、大弓場の片手間に、昔し覚えこんだ清元の稽古をして約《つま》しく暮らしているのだったが、深川女らしく色が黒く小締まりだったが、あの辺の芸者らしい暢気《のんき》さもあった。
「今日はお師匠さんにお話があるんですけれど……。」
 銀子は切り出した。
「そう。私に? 何でしょうね。」
「お師匠さん。家《うち》のお嫁さんに来てくれません?」
「私が? お宅の後妻に?」
「お父さんも承知の上なのよ。」
「愛ちゃんがいるからね。」
「いたっていいわよ。」
「それはね、私も商売人あがりだから、この商売はまんざら素人《しろうと》でもないんですよ。だから旦那《だんな》が御承知なら行ってもよござんすがね。でもそんなことしてもいいんですか。」
「どうしてです。」
「真実《ほんとう》か嘘《うそ》か、世間の噂《うわさ》だから当てにはならないけれど、お銀ちゃんとの噂が立っていますからね。」
「そんなこと嘘よ。全然嘘だわ。」銀子はあっさり否定した。
「そうお。そんなら私の方は願ったり叶《かな》ったりだけれど、旦那がよろしくやっているところへ、私がうっかり入って行ったら、変なものが出来あがってしまいますからね。」
「そんなことないわ。父さんにお神さんがないから、そんな噂も立つんでしょう。お師匠さんに来ていただければ、私も助かるわ。」
 師匠も銀子の口車に乗り、やがて大弓場を処分して、藤本へ入って来たのだったが、入れてみると、ちぐはぐの親父と、銀子の所思《おもわく》どおりに行かず、師匠の立場も香《かんば》しいものではなかった。親父と銀子は、時々師匠の前でもやり合い、声
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