雑な環境に身をおくことは、決して心から楽しいことでも、ありがたいことでもなかった。祖父以来儒者の家であった彼の家庭には、何か時代とそぐわぬ因習に囚《とら》われがちな気分もあると同時に、儒教が孤独的な道徳教の多いところから、保身的な独善主義に陥りやすく、そういうところから醸《かも》された雰囲気《ふんいき》は、均平にはやりきれないものであった。それが少年期から壮年期へかけての、明治中葉期の進歩的な時代の風潮に目ざめた均平に、何かしら叛逆的《はんぎゃくてき》な傾向をその性格に植えつけ、育った環境と運命から脱《ぬ》け出ようとする反撥心《はんぱつしん》を唆《そそ》らずにはおかなかった。それゆえ学窓を出て官界に入り、身辺の世のなかの現実に触れた時、勝手がまるで違ったように、上官や同僚がすべて虚偽と諂諛《てんゆ》の便宜主義者のように見えて仕方がなかった。しかしそっちこっち転々してみて、前後左右を見廻した果てに、いくらか人生がわかって来たし、人間の社会的に生きて行くべき方法も頷《うなず》けるような気がして、持前の圭角《けいかく》が除《と》れ、にわかに足元に気を配るようになり、養子という条件で三村の令嬢と結婚もしたのであったが、内面的な悲劇もまたそこから発生しずにはいなかった。

      四

 ここでは酒が飲めないので、均平は何か間のぬけた感じだったが、近頃はそう物にこだわらず、すべてを貴方《あなた》まかせというふうにしていればいられないこともないので、酒の払底な今の時代でも、格別不自由も感じなかった。もちろん心臓も少し悪くしていた。こうした日蔭者《ひかげもの》の気楽さに馴《な》れてしまうと、今更何をしようという野心もなく、それかと言って自分の愚かさを自嘲《じちょう》するほどの感情の熾烈《しれつ》さもなく、女子供を相手にして一日一日と生命を刻んでいるのであった。時にははっとするほど自分を腑効《ふがい》なく感じ、いっそ満洲《まんしゅう》へでも飛び出してみようかと考えることもあったが、あの辺にも同窓の偉いのが重要ポストに納まっていたりして、何をするにも方嚮《ほうこう》が解《わか》らず、自信を持てず、いざとなると才能の乏しさに怯《おじ》けるのであった。四十過ぎての蹉跌《さてつ》を挽回《ばんかい》することは、事実そうたやすいことでもなかったし、双鬢《そうびん》に白いものがちかちかするこ
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