皆何かへルンの死ぬ知らせであったような気が致しまして、これを思うと、今も悲しさにたえません。
 午後には満洲軍の藤崎さんに書物を送って上げたいが何がよかろう、と書斎の本棚をさがしたりして、最後に藤崎さんへ手紙を一通書きました。夕食をたべました時には常よりも機嫌がよく、常談など云いながら大笑など致していました。『パパ、グッドパパ』『スウイト・チキン』と申し合って、子供等と別れて、いつのように書斎の廊下を散歩していましたが、小一時間程して私の側に淋しそうな顔して参りまして、小さい声で『ママさん、先日の病気また帰りました』と申しました。私は一緒に参りました。暫らくの間、胸に手をあてて、室内を歩いていましたが、そっと寝床に休むように勧めまして、静かに横にならせました。間もなく、もうこの世の人ではありませんでした。少しも苦痛のないように、口のほとりに少し笑を含んで居りました。天命ならば致し方もありませんが、少しく長く看病をしたりして、愈々《いよいよ》駄目とあきらめのつくまで、いてほしかったと思います。余りあっけのない死に方だと今に思われます。

 落合橋を渡って新井の薬師の辺までよく一緒に散歩をした事があります。その度毎に落合の火葬場の煙突を見て今に自分もあの煙突から煙になって出るのだと申しました。
 平常から淋しい寺を好みました。垣の破れた草の生いしげった本堂の小さい寺があったら、それこそへルンの理想でございましたろうが、そんなところも急には見つかりません。墓も小さくして外から見えぬようにしてくれと、平常申して居りましたが、遂に瘤寺で葬式をして雑司谷の墓地に葬る事になりました。
 瘤寺は前に申したようなわけで、ヘルンの気に入らなくなったのですが、以前からの関係もあり、又その後浅草の伝法院の住職になった人と交際があった縁故から、その人を導師として瘤寺で式を営む事になりました。ヘルンは禅宗が気に入ったようでした。小泉家はもともと浄土宗ですから伝通院がよかったかも知れませんが、何分その当時は大分荒れていましたので、そこへ参る気にはなりませんでした。お寺へ葬りましても墓地は直に移転になりますので、どうしても不安心でなりませんから割合に安心な共同墓地へ葬る事に致しました。青山の墓地は余りにぎやかなので、ヘルンは好みませんでした。
 雑司ケ谷の共同墓地は場所も淋しく、形勝の地でもあると云うので、それにする事に致しました。一体雑司ケ谷はへルンが好んで参りましたところでした。私によいところへ連れて行くと申しまして、子供と一緒に雑司ケ谷へつれて参った事もございました。面影橋と云う橋の名はどうして出たかと聞かれた事もございました。鬼子母神の辺を散歩して、鳥の声がよいがどう思うかなどと度々申しました。関口から雑司ケ谷にかけて、大層よいところだが、もう二十年も若ければこの山の上に、家をたてて住んで見たいが残念だ、などと申した事もございました。
 表門を作り直すために、亡くなる二週間程前に二人で方々の門を参考に見ながら雑司ケ谷辺を散歩を致したのが二人で外出した最後でございました。その門は亡くなる二日前程から取りかかりまして亡くなってから葬式の間に合うように急いで造らせました。



底本:「小泉八雲全集 別冊」第一書房
   1927(昭和2)年12月20日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。ただし、聞書きを元にした底本の特徴を生かすために、繰り返し記号はそのまま用いました。
※「或」は「あ(る)」に、「見度い」は「見たい」に、書き換えました。
※つぎの語にルビを新たに付けました。
「愈々《いよいよ》」、「態々《わざわざ》」、「態《わざ》と」
※底本に見られる「ビフテキ」と「ビステキ」、「ウイスキー」と「ウィスキー」といった表記のばらつきは、統一しませんでした。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:林田清明
校正:松永正敏
2000年10月24日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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