や紙幣がこぼれ出て居るのです。ヘルンは性来、金には無頓着の方で、それはそれはおかしいようでした。勘定なども下手でした。そのような俗才は持ちませんでした。ただ子供ができたり、自分の体が弱くなった事に気がついたりしてから、遺族の事を心配し始めました。大社の宮司は西田さんの知人でありまして、ヘルンの日本好きの事を聞いていますから、大層優待して下さいました。盆踊が見たいと話しますと、季節よりも少し早かったのでしたが、態々《わざわざ》何百人と云う人を集めて踊りを始めて下さいました。その人々も皆大満足で盆踊をしてくれました。尤もこの踊りはあまり陽気で、盆踊ではない、豊年踊だとヘルンが申しました。この旅行の時、ヘルンが『君が代』を教わりまして、私共三人でよく歌いました。子供のように無邪気なところがありました。
二週間許りの後、松江に帰り盆踊の季節に近づいたので、ヘルンと私と二人で案内者も連れないで、伯耆の下市に盆踊を見に参りました。西田さんは京都へ旅を致されました。私共ただ二人で長旅を致したのはこれが始めてでした。下市へ参りまして昨年の丁度今頃赴任の時泊りました宿屋を尋ねて、踊りの事を聞きますと『あの、今年は警察から、そんな事は止めよ、と云って差止められました』との事で、ヘルンは失望して、不興でした。『駄目の警察です、日本の古い、面白い習慣をこわします。皆耶蘇のためです。日本の物こわして西洋の物真似するばかりです』と云って大不平でした。
この時には、到る処盆踊をさがして歩きました。先きに申しました東郷の池のさわぎもこの時の事でした。漸く盆踊を見つけて参ります、と反対に西洋人が来たと云うので踊りそこのけにして、いたずらに砂をかける者がある。あとから謝罪に来ると云うような珍事もございました。出雲に帰りましたのは、八月の末で、京都から帰られた西田さんと三人で旅行の話を致しまして愉快でした。これは一月程の旅行でしたが、この外一日がけの旅はよく致しました。
出雲は面白くてへルンの気に入ったのですが、西印度のような熱いところに慣れたあとですから、出雲の冬の寒さには随分困りました。その頃の松江には、未だストーヴと申す物がありませんでした。学校では冬になりましても、大きい火鉢が一つ教場に出るだけでした。寒がりのヘルンは西田さんに授業中、寒さに困る事を話しますと、それならば外套を着たままで、授業をなさいとの事でした。この時一着のオヴアーコートを持っていましたが、それは船頭の着る物だと云っていましたが、それを着ていたのです。好みはあったのですが、服装などはその通り無雑作で構いませんでした。
熊本で始めて夜、二人で散歩致しました時の事を今に思い出します。ある晩へルンは散歩から帰りまして『大層面白いところを見つけました、明晩散歩致しましょう』との事です。月のない夜でした。宅を二人で出まして、淋しい路を歩きまして、山の麓に参りますと、この上だと云うのです。草の茫々生えた小笹などの足にさわる小径を上りますと、墓場でした。薄暗い星光りに沢山の墓がまばらに立って居るのが見えます、淋しいところだと思いました。するとヘルンは『あなた、あの蛙の声聞いて下さい』と云うのです。
又熊本に居る頃でした。夜散歩から帰った時の事です。『今夜、私淋しい田舎道を歩いていました。暗いやみの中から、小さい優しい声で、あなたが呼びました。私あっと云って進みますとただやみです。誰もいませんでした』など申した事もございます。
熊本にいました頃、夏休みに伯耆から隠岐へ参りました。隠岐では二人で大概の浦々を廻りました。西郷、別府、浦の郷、菱浦、みな参りました。菱浦だけにも一週間以上いました。西洋人は始めてと云うわけで、浦郷などでは見物が全く山のようで、宿屋の向いの家のひさしに上って見物しようと致しますと、そのひさしが落ちて、幸に怪我人がなかったが、巡査が来るなどと云う大騒ぎがありました。西郷では珍客だと申すので病院長が招待して下さいました。ヘルンはこの見物騒ぎに随分迷惑致しましたが、私を慰め励ますために、平気を装って『こんな面白い事はない』などと申していましたが、書物にはやはり困ったように書いて居るそうでございます。御陵にも詣でました。後醍醐[#「後醍醐」は底本では「御醍醐」と誤植]天皇の行在所の黒木山へも参りました。その側の別府と申すところでは菓子がないので、代りに茶店で、『ゑり豆』を出したのを覚えています。
帰りに伯耆の境港で偶然盆踊を見ましたが、元気な漁師達の多い事ですから、足を踏んでも、手を拍ってもえらい勢ですから、ヘルンはここで見た盆踊は、一番勇ましかったといつも申しました。杵築のは陽気な豊年踊、下市のは御精霊を慰める盆踊、境のは元気の溢れた勇ましい踊りだと申しました。
それから山越しに、伯耆から備後の山中で泊った事をいつも思い出します。ひどい宿でございましたが、ヘルンには気に入りました。車夫の約束は、山を越えまして三里程さきで泊ると云うのでしたが、路が方々こわれていたので途中で日が暮れてしまったのです。山の中を心細く夜道を致しました。そろそろ秋ですから、色々の虫が鳴いて居るのです。山が虫の声になってしまって居るようで、それでしんとして淋しうございました。『この近くに宿がないか』と車夫に尋ねますと『もう少し行くと人家が七軒あって一軒は宿屋をするから、そこで勘忍して下さい』と申すのです。車が宿に着きましたのが十時頃であったと覚えています。宿と云うのが小さい田舎家で気味の悪い宿でした。行灯は薄暗くて、あるじは老人夫婦で、上り口に雲助のような男が三人何か話しています。二階に案内されたのですが、婆さんが小さいランプを置いて行ったきり、上って来ません。あの二十五年の大洪水のあとですから、流れの音がえらい勢でゴウゴウと恐ろしい響をしています。大層な螢で、家の内をスイスイと通りぬけるのです。折々ポーッポーッと明るくなるのです。肱掛窓にもたれていますと顔や手にピョイピョイ虫が何か投げつけるように飛んで来て当るのです。随分ひどい虫でした。膝の近くに来て、松虫が鳴いたりするのです。下の雲助のような男の声が、たまに聞えます。はしご段がギイギイと音がすると、あの悪者が登って来るのではないかなどと、昔話の草艸紙の事など思い出して心配していました。婆さんが御膳を持って上って来ました。あの虫は何と云う虫ですかと尋ねますと『へい夏虫でございます』と云って平気で居るのです。実に淋しい宿で、夢を見て居るようでございました。ヘルンは『面白いもう一晩泊りたい』と云っていました。箱根あたりの、何から何まで行き届いた西洋人に向く宿屋よりも、こんなのがかえって気に入りました。それですから、私が同意致したら、隠岐の島で海の風に吹かれてまだまだ長くいたでございましょう。飛騨の山中を旅して見たい、とよく申しておりましたが、果しませんでした。
神戸から東京に参ります時に、東京には三年より我慢むつかしいと私に申しました。ヘルンはもともと東京は好みませんで、地獄のようなところだと申していました。東京を見たいと云うのが、私の兼ての望みでした。ヘルンは『あなたは今の東京を、廣重の描いた江戸絵のようなところだと誤解して居る』と申していました。私に東京見物をさせるのが、東京に参る事になりました原因の一つだと云っていました。『もう三年になりました。あなたの見物がすみましたら田舎に参ります』と申した事も度々ありました。
神戸から東京に参りましたのは、二十九年の八月二十七日でした。大学に官舎があるとか云う事でしたが、なるべく学校から遠く離れた町はずれがよいと申しまして、捜して頂きましたけれども良いところがございませんでした。
この時です、牛込辺でしたろう。一軒貸家がありまして、大層広いとの話で、二人で見に参りました事がございました。二階のない、日本の昔風な家でした。今考えますと、いずれ旗本の住んで居られたと云う家でしたろうと存じます。お寺のような家でした。庭もかなり広くて大きな蓮池がありました。しかし門を入りますから、もう薄気味の悪いような変な家でした。ヘルンは『面白いの家です』と云って気に入りましたが、私にはどうもよくない家だと思われまして、止める事に致しましたが、後で聞きますと化物屋敷で、家賃は段々と安くなって、とうとうこわされたとか云う事でした。この話を致しますと、ヘルンは『あゝ、ですから何故、あの家に住みませんでしたか。あの家面白いの家と私思いました』と申しました。
富久町に引移りましたが、ここは庭はせまかったのですが、高台で見晴しのよい家でございました。それに瘤寺と云う山寺の御隣であったのが気に入りました。昔は萩寺とか申しまして萩が中々ようございました。お寺は荒れていましたが、大きい杉が沢山ありまして淋しい静かなお寺でした。毎日朝と夕方は必ずこの寺へ散歩致しました。度々参りますので、その時のよい老僧とも懇意になり、色々仏教の御話など致しまして喜んでいました。それで私も折々参りました。
日本服で愉快そうに出かけて行くのです。気に入ったお客などが見えますと、『面白いのお寺』と云うので瘤寺に案内致しました。子供等も、パパさんが見えないと『瘤寺』と云う程でございました。
よく散歩しながら申しました。『ママさん私この寺にすわる、むつかしいでしょうか』この寺に住みたいが何かよい方法はないだろうかと申すのです。『あなた、坊さんでないですから、むつかしいですね』『私坊さん、なんぼ、仕合せですね。坊さんになるさえもよきです』『あなた、坊さんになる、面白い坊さんでしょう。眼の大きい、鼻の高い、よい坊さんです』『同じ時、あなた比丘尼となりましょう。一雄小さい坊主です。如何に可愛いでしょう。毎日経読むと墓を弔いするで、よろこぶの生きるです』『あなた、ほかの世、坊さんと生れて下さい』『あゝ、私願うです』
ある時、いつものように瘤寺に散歩致しました。私も一緒に参りました。ヘルンが『おゝ、おゝ』と申しまして、びっくり驚きましたから、何かと思って、私も驚きました。大きい杉の樹が三本、切り倒されて居るのを見つめて居るのです。『何故、この樹切りました』『今このお寺、少し貧乏です。金欲しいのであろうと思います』『あゝ、何故私に申しません。少し金やる、むつかしくないです。私樹切るより如何に如何に喜ぶでした。この樹幾年、この山に生きるでしたろう、小さいあの芽から』と云って大層な失望でした。『今あの坊さん、少し嫌いとなりました。坊さん、金ない、気の毒です、しかしママさん、この樹もうもう可哀相なです』と、さも一大事のように、すごすごと寺の門を下りて宅に帰りました。書斎の椅子に腰をかけて、がっかりして居るのです。『私あの有様見ました、心痛いです。今日もう面白くないです。もう切るないとあなた頼み下され』と申していましたが、これからはお寺に余り参りませんでした。間もなく、老僧は他の寺に行かれ、代りの若い和尚さんになってからどしどし樹を切りました。それから、私共が移りましてから、樹がなくなり、墓がのけられ、貸家などが建ちまして、全く面目が変りました。ヘルンの云う静かな世界はとうとうこわれてしまいました。あの三本の杉の樹の倒されたのが、その始まりでした。
淋しい田舎の、家の小さい、庭の広い、樹木の沢山ある屋敷に住みたいと兼々申していました。瘤寺がこんなになりましたから、私は方々捜させました。西大久保に売り屋敷がありました。全く日本風の家で、あたりに西洋風の家さえありませんでした。
私はいつまでも、借家住いで暮すよりも、小さくとも、自分の好きなように、一軒建てたいと申しますと、『あなた、金ありますか』と申しますから『あります』と申します。『面白い、隠岐の島で建てましょう』といつも申します。私は反対しますとそれでは『出雲に建てて置きましょう』と申しますから、全く土地まで捜した事もありました。しかし私はそれほど出雲がよいとも思いませんでしたから、ついこの西大久保
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小泉 節子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング