参るのですが、それでもよく『一分後れました、夕焼け少し駄目となりました。なんぼ気の毒』などと申しました。子供等と一緒に『夕焼け小焼け、明日、天気になーれ』と歌ったり、または歌わせたり致しました。
焼津などに参りますと海浜で、子供や乙吉などまで一緒になって『開いた開いた何の花開いた、蓮華の花開いた……』の遊戯を致しまして、子供のように無邪気に遊ぶ事もございました。
『廣瀬中佐は死したるか』と申す歌も、子供等と一緒に声を揃えて大元気で、歌いました。室内で歌ったり、子供の歌って居るのを書斎で聞いて喜んだり、子供の知らぬ間にそっと出かけて一緒に歌ったり致しました。先年三越で福井丸の船材で造った物を売り出した時に巻煙草入を買って帰りました。その日に偶然ヘルンの書いて置きました『廣瀬中佐の歌』が出ましたから私は不思議に思いまして、それを丁度その箱に納めて置きました。
発句を好みまして、これも沢山覚えていました。これにも少し節をつけて廊下などを歩きながら、歌うように申しました。自分でも作って芭蕉などと常談云いながら私に聞かせました。どなたが送って下さいましたか『ホトトギス』を毎号頂いて居りました。
奈良漬の事をよく『由良』と申しました。これは二十四年の旅の時、由良で喰べた奈良漬が大層旨しかったので、それから奈良漬の事を由良と申していました。
熊本を出まして、これから関西から隠岐などを旅行しようとする時です。九州鉄道のどの停車場でございましたか、汽車が行き違いに着きまして、四五分、互いに止まりました時に、向うの汽車の窓から私共を見た男の眼が非常に恐ろしい凄い眼でした。『あゝえらい眼だ』と思って居ると、私共の汽車は走ってしまったのですが『今の眼を見ましたか』とへルンは申しました。『汽車の男の眼』と云う事を後まで話しました。
角力は松江で見ました。谷の音が大関で参りました。西洋のより面白いと申していたようでした。谷の音という言棄はよく後まで出まして、肥ったという代りに『谷の音』と申すのでございます。
芝居はアメリカで新聞記者をして居る時分に毎日のように見物したと申していました。有名な役者は皆お友達で交際し、楽屋にも自由に出入したので、芝居の事を学問したと申していました。日本では芝居を見たのは僅か二度しかないのです。それは松江と京都で、ほんのちょっとでした。長い間人込みの
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