席にも度々出ましたし、自宅にも折々学校の先生方を三四名も招きまして、御馳走をして、色々昔話や、流行歌を聞いて興じていました。日本服を好きまして、羽織袴で年始の礼に廻り、知事の宅で昔風の式で礼を受けて喜んだ事もございました。
松江に参りまして、当分材木町の宿屋に泊りました。しかし、暫らくで急いで他に転居する事になりました。事情は外にもあったでしょうが、重なる原因は、宿の小さい娘が眼病を煩っていましたのを気の毒に思って、早く病院に入れて治療するようにと親に頼みましたが、宿の主人は唯はいはいとばかり云って延引していましたので『珍らしい不人情者、親の心ありません』と云って、大層怒ってそこを出たのでした。それから末次本町と申すところのある物もちの離れ座敷に移りました。しかし『娘少しの罪ありません、唯気の毒です』と云って、自分で医者にかけて、全快させてやりました。自分があの通り眼が悪かったものですから、眼は大層大切に致しまして、長男の生れる時でも『よい眼をもってこの世に来て下さい』と云って大心配でした。眼の悪い人にひどく同情致しました。宅の書生さんが書物や新聞を下に置いて俯して読んでいましても直ぐ『手に持ってお読みなさい』と申しました。
この材木町の宿屋を出ましてから末次に移りまして、私が参りまして間のない事でございました。ヘルンの一国な気性で困った事がございました。隣家へ越して来た人が訪ねて参りました。その人はヘルンが材木町の宿屋に居た頃やはりその宿にいた人で、隣り同志になった挨拶かたがた「キュルク抜き」を借りに見えたのでした。挨拶がすんでから、ヘルンは『あなたは材木町の宿屋にいたと申しましたね』と云いますとその人は『はい』と答えました。ヘルンは又『それではあの宿屋の主人の御友達ですか』と申しましたら、その人は又何心なく『はい、友達です』と答えますと、ヘルンは『あの珍らしい不人情者の友達、私は好みません。さようなら、さようなら』と申しまして奥に入ってしまいます。その人は何の事やら少しも分らず、困っていましたので、私が間へ入って何とか言分け致しましたが、その時は随分困りました。
この末次の離れ座敷は、湖に臨んでいましたので、湖上の眺望が殊に美しくて気に入りました。
しかし私と一緒になりましたので、ここでは不便が多いと云うので、二十四年の夏の初めに、北堀と申す処の士族屋敷
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