唯物史觀と文學
平林初之輔

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)凡《あら》ゆる

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)時代|後《おく》れ

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は二の字点、第3水準1−2−22、287−下−13]
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       一

 人或は言うであろう。「勿論、宗教的、道徳的、哲學的、法律的の觀念は歴史の進歩と共に變化した。けれども宗教、道徳、哲學、政治、法律等は此の變化をうけずに生きのこつていた。」
「おまけに、凡《あら》ゆる社會状態に共通の、自由とか正義とかいう永久眞理がある。ところが共産主義は永久眞理を抹殺してしまう。それは凡《すべ》ての宗教、凡ての道徳を新しい基礎の上に構成する代りに全然廢してしまう。だから共産主義は過去の一切の歴史的經驗と矛盾するものである。」
 此の批難を要約するとどうなるか? 過去に於ける一切の社會の歴史は階級對立の發展であつた。異つた時代に異つた形態をとつてくる階級對立の歴史であつた。
 けれども階級對立が如何なる形態をとつたにもせよ、社會の一部が他の部分に搾取されたということは過去の全歴史に共通の一事實である。だから過去の時代の社會的意識が複雜多樣な相を示しているにも拘らず、それは或る共通の形態或は一般觀念の中に動いているのであつて、これは階級對立が全く消え去らない限りは完全になくならぬということは怪むに足りぬ。
 共産主義革命は傳統的財産關係との最も急激な分裂である、故にその發展と共に傳統的觀念との最も急激な分裂が起るのは不思議でない…………マルクス。
 マルクスは社會主義に對する小ブルジョア的批難に對して七十餘年前に以上の如く答えた。マルクスにとつては一定時代の法律や道徳や宗教等は多かれ少かれ支配階級の利益を包藏している階級的偏見に他ならなかつた。而してこの偏見から完全に解放される爲めには階級のない社會をまたねばならなかつた。文學は法律、道徳、宗教、哲學と共に社會的意識の一形態、一要素である。そこで一時代の文學は多かれ少なかれ支配階級の階級的偏見に感染することは些《いささか》の疑いもない。而してこの階級的偏見のよつて來るところは、階級對立を生ぜしめる社會的生産關係に他ならぬことも疑問の餘地がない。文學と唯物史觀との關係はそこに潜んでいる。ところが小ブルジョア的「思想家」達は昔も今もこの明白な事實を受け入れない。
 唯物史觀は今や中間階級的アイデオロジストの批難の的となつている。しかし多くの新しい學説がそうであつた如く、而して唯物史觀が七十餘年前にそうであつた如く、甚だしい、誤解、曲解、通俗化、脱骨、中傷の犧牲となつている。
 唯物史觀の如き時代|後《おく》れの淺薄な學説に從うのは學者文人の恥辱であるとして、「現代文化」の支持者達は雄々しくも唯物史觀征伐の十字軍を起して來た。そうして彼等はこん度も亦易々と唯物史觀の首級をあげて凱旋したのである。嗚呼《ああ》しかしながら、その首級は正眞まぎれもない唯物史觀のそれであつたか? 否それは彼等のイリュージョンであつた。彼等自身がこしらえた唯物史觀の模型であつた。どうしてそんなことが生じたか?

       二

 近世の自然科學は丁度唯物史觀と同じ運命を經て來た。宗教家、神學者、倫理學者、哲學者、文學者等は、自然科學誕生の前後に於て甚しい恐慌を來した。そうして次には結束して此の幼兒を虐殺しようとした。權威ある故人をしてこれを語らしめよ。リッチー教授は言う。
「科學概念の變化に對する干渉は、人間の精神を重んずる人々によりて從來たえず行われた過失である。かかる干渉は常に當時勃興しつつあつた科學の爲に棄てられた中途半端な科學的學説の支持者の敗北に終つた。神學はガリレオに干渉したが、其干渉に依て何等得る所がなかつた。天文學、地質學、生物學、人類學、歴史學等は屡※[#「※」は二の字点、第3水準1−2−22、287−下−13]《しばしば》、物質的人間説を恐れている人々の心を震駭《しんがい》させた。彼等はダーウィン説とラマルク説の相違等をもつけの幸として新學説と戰おうとした。恰《あたか》も人類の精神的幸福が十七世紀若しくはそれ以前の科學的信仰と密接不離の關係があるかのように……」(Prof. Ritchie, Philosophical Studies)
 これは丁度マルキシズム、サンジカリズム、アナーキズム等に依て唯物史觀に對する解釋を異にしているどさくさ紛れに十八世紀乃至十七世紀の科學前派のヒューマニズムを持出して、鐵と石炭と電氣とに依て動かされている近世産業問題を解決させよ
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