つが合致した時に犯人を決定するのです。しかしこの二つが合致しているのに、被告の精神状態を疑っていたりしていた日には、裁判はできませんからねえ。でも、こんどの事件は、もともと過失ですから、御子息の罪は大したこともなかろうと私は考えるのです。が、検事の方ではこの事件を過失と認めておらんようでもあり、それに検事の言い分にも聞いてみれば一応道理があるのでしてね……」
「では、せがれが、故意に大それた殺人を犯したとでもいうのですね、過失でさえもないというのですね。それでせがれ[#「せがれ」に傍点]の陳述と物的証拠とやらがぴったり合致しているというのですか? そういうはずはありますまい。」
老教授の顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]筋《せつじゅきん》はぴりぴりと顫動《せんどう》し、蒼ざめた顔には、さっ[#「さっ」に傍点]と血の色がのぼった。それも無理もない、息子の生死のわかれ目なのだ。
「まあ落ちついて下さい。今も申し上げたように、私は過失であるとかたく信じているのです。けれども、あなたが、御子息の陳述と物的証拠とが合致しておるはずがない[#「はずがない」に傍点]とおっしゃるのも妙ですね。あの日は、あなたは早くから大学の方へ出ておられて、死体が発見されたのはそのあとの出来事ですから、現場も御覧になっておらず、御子息の陳述をお聞きになったわけでもないあなたが、はずがない[#「はずがない」に傍点]などとおっしゃるのは少しお言葉が過ぎはしませんか?」
判事の論理整然たる反駁《はんばく》におうて、教授はまったくとりつく島を失った。額《ひたい》には油汗が一面ににじんでいる。やっとのことで吃《ども》り吃り彼は言いつくろった。
「それは、その……せがれ[#「せがれ」に傍点]は気が変ですから、まさか、半狂人の言うことが事実にあっているとは思われませんので……」
「ところが御子息の陳述は事実とぴったりあっているのです。ただ、ほんの一箇所事実とあわんところがあるのでしてね。それさえわかっておれば、この事件はもう明瞭で、御子息の犯罪は『過失罪』ということにきまるのですが、たった一箇所|曖昧《あいまい》なところがあるために、謀殺《ぼうさつ》ではないかという疑いの余地が生じて来るのです。もっとも、繰り返して申し上げますが、わたしはそんなことは信じません。ただ検事は深くそう信じこんでいるようですし、ことによると、裁判長も検事の言葉を信ずるだろうと思われるのです。何しろ妙な工合になっているものですからねえ。」
予審判事は、じろりと氷のような視線を老教授に送った。老教授の半白の顎髭《あごひげ》が細かくふるえているのは、五尺もはなれている判事の眼にもはっきりわかった。
「その曖昧な点というのはどういう点ですか?」
「実に妙な話でしてね」と篠崎判事は二本目の敷島に火をつけてから語り出した。口元には、やはり、何とも意味のわかりかねる微笑が消えたり浮んだりしている。彼は話の要所要所に力点をつけて、そのたびに、例の裁判官に特有の、相手の心胆をこおらせるような視線を、聴き手の顔へ投げるのであった。老教授は、船暈《ふなよ》いをした人が、下腹部《したばら》に力を入れて、一生懸命に抵抗しようとすればする程、暈《よ》いが募《つの》って来る時のように、心の平静を失うまいとして、とりわけ、気の弱い彼の持病である脳貧血にかかって倒れるような失態を演じまいとして、肩を張らし、固唾《かたず》を呑み、両手の指をにぎりしめてきいているのであったが、予審判事の剃刀《かみそり》のような視線に触れると、こういう姿勢は一たまりもなくくじけてしまうのであった。
「あなたも御承知の、現場で拘引された第一の嫌疑者ですね。あれは林という男ですがね。この男の申し立てと、御子息の申し立てとが、不思議に食いちがっているところがあるのです。林の申し立てによると、彼はあの朝、殺人の行われた空家――あなたのお宅の隣にあるあなたの持家ですね――その空家に、貸家札がはってあるのを見て、一応中を見せていただきたいとお宅の裏口に洗濯をしていた女中さんに言ったのだそうです。すると、女中さんは、玄関の戸は錠がおりていないから随意にはいって御覧なさいと言ったのですね。何でもこの林という男は、その前の日の夕方にも、その家を見に来たのだそうですが、薄暗くてよくわからなかったので、明くる日に改めて見に来たのだというのです。中へはいって、座敷の間取りや、日当りの工合や、便所や風呂場のあり場所などをしらべてから、台所へはいって見ると、板の間に、あの女の死体がうつぶしになっていて、全身に打撲傷を負い、特に後頭部をひどく打ったものと見えて、髪が血でかたまっており、背中には新しい鋭利な小刀がつきさしてあったというのです。この物凄い光景《ありさま》
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