の本質を想像せらるゝ、若しくは想像しようと努力せらるゝに反し、私は、それ等のものゝ結合に文学の本質を見る点である。人間はたしかに頭でも手でも足でも胴体でもない。しかし、人間はそれ等のものゝ外にあるのではなくて、それ等のものゝ一定の結合を人間と呼ぶのである。
併しながら、聡明なる土田氏は、文芸のもつ社会性を看却せられない。氏によれば、文芸は生活を通じて社会と交渉して来るのである。この説には私も異議がない。だが併し、生活といふものを、文芸と社会との間に、それを互に交渉せしめるものとして介在させることによつて氏が、却つて、文芸に超社会的な要素のあることをはつきりさせようとしてをられる点に於て私は氏とは異る。氏は文学の社会性といはずに、「文学に表現せらるべき生活の社会性」と注意ぶかく言はれる。このことは、文芸の本質は表現であり、表現そのものは社会性をもたぬが、文芸に表現された生活は社会性をもつといふことになり、従つて、表現さるゝものを抽象した表現それ自体が文芸の本質であり、それは超社会的なもの、文芸に固有なものであるといふことになる。若し私たちが次のやうな理論をたてたらどうであらうか。水は酸素と水素との化合物である。酸素と水素とは物質性をもつ。しかし水の本質は、酸素や水素ではなくて化合そのものにある。化合そのものには物質性はない。――土田氏の理論のもつ神秘性、非科学性はこの例によりてほゞわかるであらう。
だが、最も主要な点は、土田氏が「文芸[#「文芸」に傍点]に表現せらるべき生活の社会性」として
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第一、個人主義に反対する意味での社会性をもつこと、
第二、無産者性をもつこと、
第三、社会的批判とそれより生れる理想社会の憧憬をもつこと、
[#ここで字下げ終わり]
を列挙せられてゐる点である。果してこれ等の事柄が「文芸に表現せらるべき社会性」なのであらうか? これ等のものが「文芸に表現せらるべき」社会性であるならば、それを表現してゐないものは文芸の名に値しないであらうか? たとへば無産者性をもつてゐない文芸は文芸でないのであらうか? 私は、こゝに、氏が(その方法の形而上学的なるが為の)みじめな理論的混乱に陥つてをられるのを発見する。土田氏の理論からいつても、又私たちの理論からいつても土田氏のやうに、文芸に何が表現せらるべきか[#「表現せらるべきか」に傍
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