るかといふ一点によりてきまる。
次に、凡ての理論がそれ/″\真理の一部を蔵してゐるのであつて、絶対真理といふものはないといふ説に移らう。「凡ての」といふのは純然たる修辞である。雷を空中電気の現象であるとする説と、ジユピターの怒りに帰する説とは絶対に両立しない。いづれか一つが真理であるか、いづれも虚偽であるかの二つの場合は可能であるが、二つとも真理であるといふこと、二つとも真理の一部を言ひ表はしてゐるといふことは不可能である。
けれども、「凡ての」といふ形容詞をとり去つてしまへばこの命題は成りたつ。たとえば、生物進化の説明としてのダーウイニズムとラマルキズムとはいづれも真理の一部を蔵してゐると言ひ得る。だが、問題はそれから先に横はる。若し、この両者が、それ/″\真理の一部を蔵してゐるといふことが真理であるならば、私たちのとるべき態度は二通りしかあり得ない。即ち、いづれかの一方に他方の真理を包摂するか、然らざれば、両者をともに脱却して、両者を綜合する一層高い見地にまでのぼるか、そのいずれかである。双方ともに、そつくりそのまゝ認めるといふ態度は無理論主義者の態度であり、理論の否認である。私たちは二つの理論を闘争せしめて、いづれかをして他を克服せしめるか、或は、両者を綜合するより高い段階に進まねばならぬ。
以上の説明によりて、私は、事実としては、文学上の種々の流派の存在理由を認めるに拘らず、理論としては、凡ての流派の理論を同一の存在権利をもつものとして許すことができないことを信じてゐることがわかつたであらう。文学理論は、他の諸科学の理論と同様に、唯一の体系に組織されねばならぬ。また、どれ程遠い将来に於てゞも、それは組織されるであらう。但し私は、それを信ずるだけであつて、私自身が、いますぐにこの大事業に着手しようとは全然思つてゐない。また、今後、文学上の種々の流派が生滅するであらうことは確実といつてもよい。がしかし、その場合私たちは、事実の前に屈服して、みんな正しいのだといふやうな折衷主義に堕してはならないであらう。
三 文学は何のために生れ何のために存するか
私は、文学の本質といふアプリオリをすてた。それと同じ理由によりて、今度は、文学は何のために生れ、何のために存するかといふ問ひに対しても、先験的な解答を断乎として排除しなければならぬ。
この解答として私たちは、少くも次の三つを期待することができる。
A、文学とは、私たちが、その思想感情を表現するにあたつてとる一つの形式であつて、発表或は表現そのものが既に文学の目的であり、それ以外に目的はない。
B、文学の目的は、読者をよろこばすことにある。作者の発表欲、表現欲を満足させることではなくて、読者に、高雅な情操を起させることである。
C、文学の目的は、啓蒙的なものである。文学作品は読者を教へるものをもつてゐなければならぬ。それによつて人生を、社会をよりよくするものでなければならぬ。
以上の三つの目的に随つて、文学の理論はそれ/″\異つた体系をもち得る。しかるに、前節に於て、私が述べた理由によりて、これ等の異つた体系の並立は許されない。こゝに於て、問題は、一転して解きがたい紛糾の中に入るやうに見える、だが、それはほんとうにさうなのであらうか?
私は以上のうちのどれか一つを、これこそ真の文学の目的であるとする説にはくみしがたい。理論といふものは成るべく単純な程よい。しかし、真理はあまり単純でない場合がある。単純でない真理を、単純な理論で把握しようとする時、真理は理論から逸脱して、理論は空論となる。
私は、文学の目的及び機能は、社会が進化し、従つて文学そのものが進化するにつれてかはつてゆくと思ふ。唯一絶対の目的を文学に課するわけにはゆかぬと思ふ。しかも、それは私が思うだけでなく事実である。このことは文学に限らない。建築を例にとらう。人間が最初家屋をこしらへた目的は、雨露をしのぐといふことであつたに相違ない。しかし、建築術の不断の進歩は、単にそれだけの目的では満足できなくした。今日の建築は、審美的な見地からも設計されつゝある。衣服にしてもさうであつて、当初は寒さを[#「寒さを」は底本では「寒さをを」]しのぐためのものであつたに相違ないのが、後には、装飾としての目的をより多くもつやうになつて来てゐる。(尤も熱帯人の衣服ははじめから装飾を目的としてゐたといふ説もあるが。)
かくて、文学も、その発生の当初に於ては、単に感情の表現の一形式であつたに相違ない。表現といふことそのことが既に文学の目的であつたに相違ない。今日の文学にも、その痕跡はゝつきり残つてゐる。中世時代の抒情詩人の文学、近世の唯美派の文学等には、わけてもその特色が目立つのみならず、いつの時代にでも若い人々が、他人に発表しようといふ希望も意思もなしに、たゞ自己の心中から湧きでるまゝの思想感情を紙に書きつけて楽しんでゐる場合、表現そのものが文学の目的となつてゐると言ひ得る。
けれども、社会が一定度の複雑な組織になつて来ると、読者を楽しませるといふ目的が、これに明白に加はつて来る。単に自分が楽しむだけではなくて、読むものを楽しませるといふ役割を文学がもつて来るに至るのは、けだし、最も自然な発展の径路でもあらう。近世の君主国に見る宮廷文学、封建時代の御用文学、それから、今日の商業文学(文学作品が完全に商品化した時代の文学をさす)等には、この目的が特に鮮明である。この場合には、貴族、君主、又は今日の場合では一般購買者を喜ばすことができなければ文学は存続することは許されないからである。
第三の啓蒙文学、更にその発展した宣伝文学、革命文学に於て、私たちは、もう一度目的の進化をそこに見る。単に読者をたのしませるだけでなくて、読者の心に何物かを与へ、それによつて読者を啓蒙し、人類社会の改善に貢献するところあらしめようと意欲するに至るのも、これ亦、至極当然の径路である。十八世紀の啓蒙文学、今日の社会主義文学、それから、多くの宗教文学などにこの特色は目立つてゐる。
以上の諸目的(その他にもあげ得るであらう)のうちで、いづれが、真正の、本来の文学の目的であるかといふ疑問は、私によれば成り立たない。今日に於ては、恐らくすべての文学が、以上の目的をそれ/″\分有してゐるでもあらう。従つて、傾向的な文学は、文学の本質に矛盾するとか、啓蒙文学は第二義の文学だとか、社会主義文学は文学の邪道であるとかいふ非難は成立しない。それと同時に、社会主義文学でなければ真の文学でないといふやうな非難も成立しない。
この私の説は、前に私が述べた文学理論に二つ以上の流派を認めないといふ主張と矛盾し、私をして、私が避けようと力めてゐる折衷論の中へ知らず知らずのうちに陥らしめるものゝやうに見える。併しながらそれは、単に外観的だけである。二つ以上の流派を許さないのは、一の体系に他の異質的体系の混在を許さないことである。雷を説明するにあたつて、電気の体系と神話の体系との混合折衷を許さないことである。かやうな異質的な二つの体系は互に補足しあふことも、両立することもできはしない。両者はたゞ排撃しあふのみである。一方が成立するか両方ともとも倒れになつて、より包括的な説明に代られるかのいづれかである。
ところが、文学の目的の進化の場合はさうでない。文学が、発生のそも/\のはじめから今日に至るまで唯一の目的しかもつてゐないとするのは却つて純然たる独断であつて、何物もそれが必然であることを説明してゐない。却つて、文学はすべての人間の所産と同じく進化してゆくものであること、そして文学の進化は同時に文学の目的そのものゝ進化ともなることこそ、事実がそれを呈示し、理論の統一性がこれを要求してゐるのである。それ故に、私たちは、今日の階級的文学が闘争を生命とする事実を否認するために文学の目的は闘争でないといふ独断論をつくり出す必要もなければ、またこれを是認するために、文学はそも/\闘争的であつたといふ牽強附会な理論を急造する必要もないのである。[#地から1字上げ](一九二七・三、新潮)
底本:「平林初之輔文藝評論全集 上巻」文泉堂書店
1975(昭和50)年5月1日発行
※「ゝ」「ゞ」の使い方で疑問に思える箇所がありますが、底本通りとしました。
入力:田中亨吾
校正:小林繁雄
2004年3月22日作成
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