るものは、多くの経験的要素の複合であるといふ見地から出発すべきである。かゝる見地に立つときは、文学を構成する様々な要素は、偶然に、文学の本質に附属してゐる随伴物ではなくて、却つてそれ等の要素の緊密な結合によりて、本質が構成されてゐるといふことになるのである。
近時文学のもつ社会的性質が、一部の人々によりて強調された。このことは、我国の文学批評界に、かつてない活気を帯びさせ、限りなき論争を惹き起させつゝある。これに対して、自然主義前派の形而上学的理論家は、まるで文学に社会的性質があるといふことがわかると、文学の難破でゞもあるかのやうに力んで、文学には社会的性質なしと放言するに至つた。
ついで、この理論のもつ矛盾、明々白々な破綻に気附くと、こん度は、彼等はなる程文学には社会的性質はある。しかし、それは表面的な、一時的なものであつて、文学の本質には毫も関係のないものであり、文学の本質は、その社会的性質を超越して一貫して不変であるといふ修正論を唱へはじめた。ところが、文学の理論を俗学主義の中へ、形而上学の霞の中へ、無理論の泥海の中へ曳きずりこまうとするのは、まさに此の修正論である。
何故なら、こゝで文学の本質といふものは全く説明されてもゐず、且つ彼等はこれを説明しようとする努力を少しも示してゐないからである。それは神秘的な、分析することも説明することもできない、一種不可思議な霊域としてアプリオリに設定されてゐるのである。そして、一番いけないのは、この態度を当然であると是認し、公言さへもしてゐることである。
昔の化学者は、火といふものゝ本質を設定し、これをフロジストンと命名した。火を生ぜしめるものはフロジストンの作用であると信ずることによりて満足してゐた。ところが酸素の発見によりて、火は、可燃物質に一定の熱と酸素とを加へることによりて生ずるといふことが明らかにされた。フロジストンといふ神秘的存在が、酸素といふ、具体的な、大気の中にも水の中にも含まれてゐる元素として正体を暴露して来た。これと同じことは、生命の問題に関する旧生物学者の態度の中にも見られる。彼等は、生命物質の中には生気といふものが含まれてゐて、これあるがために生命物質は無生物質から区別されてゐるのであると信じて安んじてゐた。ところが近代の実験生物学者は、生命の神秘を細胞の原形質の中にさぐり、その化学的構成、
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