階級によつて、血によつて戰いとられた文學が、國民文學として、成熟期のブルジョア階級の手で、まるで、平和と愛とのシムボルのように祭られているのである。ゲエテ、シルレル、ユゴオ等々がそれである。勃興期のブルジョアジーは、一つの階級でなくて人類を代表していた。その故にこの時期の文學は人類の文學となり、國民の文學となり得たのである。というのはプロレタリアが、階級としてはつきりと對立して來たのは、そしてブルジョアジーがその階級的性質を露骨に示して來たのは、それ以後の出來事だつたからである。この意味に於いて、勃興期のブルジョア文學は、ブルジョアジーによりも寧ろより多くプロレタリアに屬している。(メーリンクのレッシング論はこの點で私の主張を裏づけるであろう。)序《つい》でに一言しておけば、日本の國民は國民的クラシックの名に値いするような作家や作品をもつておらぬ。紅葉、露伴、逍遥、蘆花、漱石、獨歩――これ等の作家のうちで、これこそ近代日本を代表する作家であるといえる人はない。それは偶然日本に天才的作家が現われなかつたことにもよるであろうが、いま一つは、日本のブルジョアジーが十分革命的階級としての鬪爭を
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