そしてその魅力に打たれる以上はそれをありのままに告白するより外はない。この點が最も重要なのであるが、若し私の言つたことが眞實であるならば、政治的價値と藝術的價値とは遂に「調和」し得ないと私は信ずるのである。兩者を統一する藝術理論はあり得ないと信ずるのである。マルクス主義文學理論は兩者の統一ではなくて、政治的價値に藝術的價値を從屬せしめ、これをそのヘゲモニイのもとにおかんとするものである。兩者は力で、權威で結合せしめられるのである。
若しそうであるならば、私は、現在のマルクス主義藝術理論は、一つの政策論であり、政治論であつて、藝術論と名づくべきものではないと信ずる。だから、幾分寄木細工的な感ある現在のマルクス主義藝術論を解體して、政治的部分と藝術的部分とに還元し、これを明白に規定しなおす必要があると思うのである。もしマルクス主義藝術論が、完全な藝術論であるならば、ファシズム藝術論も、イムピリアリズム藝術論も同じ權利をもつて可能なわけである。久野豐彦氏が、マルクスの代りに、ダグラスをひつぱり出して來たことも亦當然認められねばならぬ。そして藝術の評價は、藝術と關係の少ない、千差萬差の尺度をもつて行われねばならないことになる。だが藝術評價の尺度が觀音様の手のように澤山あるということは、藝術作品の評價が不可能だということとかわりがない。
これに反して、マルクス主義者は、政治的尺度によりて藝術作品の對社會、對大衆的效果を評價するのであるとすれば、この問題は至極簡單明瞭に解ける。これは政策論である。だが、人類の幸福のための政策論を、藝術の名によつて拒むことはできない。
これを要するに、マルクス主義藝術運動は、藝術に關する定義の塗りかえや、藝術的價値と政治的價値との機械的混合によりて行われるわけには決してゆかない。それは飽くまでも政治のヘゲモニイのもとに行われる運動であり[#「であり」は底本では「でり」と誤植]、政治によりて藝術を支配する運動である。この關係は政治と藝術との辨證法的統一というようなあいまいな言葉で説明してうつちやつておくべきものではない。先ず一應兩者を區別し、それを當然そうであるべき關係におかねばならぬ。
從つて、マルクス主義文學は――少なくもプロレタリアの勝利のために貢獻するという意味に於けるマルクス主義文學は――一定の時期において、その特殊性を自然に失つてしまうべきものであることは自然の理である。そのためにマルクス主義文學の價値が減弱するものではないことは、もう一度繰り返していうが、勿論であるけれど。[#18字下げ、地より2字あきで](昭和四年三月)
底本:「日本現代文學全集69 プロレタリア文學集」講談社
1969(昭和44)年1月19日初版発行
入力:田中亨吾
校正:大野裕
2000年10月20日公開
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