的藝術團體に加盟したら、その作者の前日までの作品はすべてブルジョア文學作品であつたのが、その翌日からとんぼ返りして、悉くマルクス主義的文學作品になるなどと考えるのは全く子供らしい考えかたである。マルクス主義の立場からする文學批評は、常に、先ず政治的見地からされねばならぬであろう。この意味に於いて政治的意識の弛緩《しかん》は、マルクス主義文學作家にとつては致命的である。「イデオロギイはあやふやになつたけれども、技巧に於いてはすぐれて來た」というような評語は、マルクス主義作家にとつては少しも名譽ではない。それは一の藝術家としては、その作家が前進したことを意味するけれども、マルクス主義者としては後退したことを意味するからである。
 だが問題はそれだけでつきるのではない。以上はマルクス主義作品に對するマルクス主義批評の關係について言つたのであるが、マルクス主義批評は、マルクス主義作品ではない、廣く一般の文藝作品に對してどんな態度をとるべきであるか?
 嚴密に言えば、非マルクス主義作品の政治的價値は、マルクス主義的評價によれば零《ゼロ》であり、反マルクス主義作品の價値は負《ふ》になるわけである。たとえば「古池や蛙とびこむ水の音」という芭蕉の句は、マルクス主義的評價によれば、價値は零であると見なさねばならぬ。然るにすべての作家はマルクス主義者であるとは限らないのであり、マルクス主義の何たるかを全く解しない作家が澤山ある。
 この場合、マルクス主義批評家は、嚴密にその機能をはたそうと思えば、これ等の作品に對する評價をさし控えねばならぬ。そして嚴密には批評家という立場をすてて、分析者としての立場にたたねばならぬ。プレハーノフやレーニンの「トルストイ」評には、多分に(全くではないが)分析者としての姿が現われている。若しこの場合に、政治的な尺度をすててしまつて、ただの表現や形式の批評だけをするならば、その時、この批評家は、マルクス主義的批評をしているのではなくて、ただの文藝批評をしているわけである。
 更に一層進んで、反マルクス主義的思想を強くあらわした作品に對しては、マルクス主義批評家は、ただその作品にあらわされた思想と戰い、その誤謬《ごびゆう》を指摘し、克服することに全力をつくさねばならない。そしてそれ以外のことに關心する必要は少しもない。もしかかる反マルクス主義的作品の美に心ひか
前へ 次へ
全10ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
平林 初之輔 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング