これ等は大衆小説としては殆んど皆失敗してゐる。尤も中にはラフアエル・サバチニの歴史小説のやうな例外がないわけでもないが。
四
以上、私はマイケル・ジヨセフの議論をかなり長く引用した。文学論として、(若しこれを文学論といへるなら)およそこれ位プロザイツクな文学論はまたとないであらう。彼は文学作品を全く商品として観察してゐるのである。ところで文学作品を商品として見る限り、問題とされる価値は商業的価値のみである。そして商業的価値を構成する要素と芸術的価値を構成する要素とは、以上述べたところによりて、全く別箇のものであることが容易に看取し得られるであらう。
今日の大衆文学とは、この商業的価値の最も大きい、若しくは商業的価値の最も大きかるべきことを目的として製作された小説であるといつても大過ないであらう。
勿論、文学の大衆性の問題はフオルムの問題と全然無関係であると私は主張するのではない。ことにプロレタリア大衆文学の問題は、それ自身、商品としては売られないで宣伝用として頒布されるやうな場合も予想できるので、商業的価値をあまりに重要視することはできないであらうが、それでも、少くも資本主義国に於けるプロレタリア大衆文学は、商業的価値を軽視することはできないし、この場合には商業的価値とはいへなくても、芸術的価値とは更に一層言へない何等かの価値(殆んど商業価値に換算できる価値)が関与することをも考慮しなければならぬ。更に進んではフオルムそのものが、芸術的価値を構成する一要素であると同時に、商業的価値を構成する一要素でもあると言へるであらう。しかも後の場合では極く小さい要素に過ぎないであらう。何故なら、良く売れる小説は必らずしも名文であるとは限らないからである。
文学の大衆性の問題は種々な視角から眺めらるべき問題である。私が文学作品を商品としてここに論じたからと言つて、私が文学作品に商品以外の性質を見ないのだなどゝ早合点されては困る。たゞ私は、大衆文学の問題は、文学作品を一応商品としても見なければ、十分に理解し得ざること、大衆性とは、芸術的価値の一属性であるよりも、むしろ商業的価値と私が名づくる別箇の価値の別名であることを指摘したにとゞまるのである。
[#地から1字上げ](昭和四年五月「思想」)
底本:「平林初之輔文藝評論全集 上巻」文泉堂書店
1975(昭和50)年5月1日発行
入力:田中亨吾
校正:土屋隆
2004年11月2日作成
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