たとひその作品が、マルクス主義的イデオロギイにつらぬかれてゐるとしても、私は、その作品を厳密な意味でマルクス主義文学の作品とは呼ばないであらう。何となれば、それは、マルクス主義政党の仕事を意識してかゝれた文学ではないからである。これに反してAといふマルクス主義作家が、或る明確な意識をもつて大衆を啓蒙するために、社会生活に於ける極めて初歩の階級性を面白く読ませながらわからせるやうな一篇の大衆小説を書いたとする。それは、一見マルクス主義者でなくとも、良心ある[#「良心ある」に傍点]作家なら誰にでも書けさうな作品であつても、やはり、私はそれをマルクス主義の作品と呼ぶであらう。何となれば、この場合には党の仕事、従つてそれから規定された作家としての彼自身の任務が十分に意識されてゐるからである。
この極端ではあるが、実際には屡々起り得る例によりてわかるやうに、マルクス主義文学とは、プロレタリアの前衛たるマルクス主義者が、プロレタリア政党の任務を意識し、その任務の実現にそふやうな目的をもつて書かれた武装した文学[#「武装した文学」に傍点]である。勿論、その政党が十分広汎な文化の領域を見とほす視野をもつてゐる有力な政党であるならば、レーニンが言つたやうに文学者には最大限の自由を与へなければならぬ[#「文学者には最大限の自由を与へなければならぬ」に傍点]といふ見解を支持するであらう。といふのは政治的にはクーデタが有効な場合もあり、経済的には最も峻厳な諸種のレギユレーシヨンが必要である場合もあるであらうが、文学は、その本来の特殊性のために、さうした厳密な政治的規定を与へる瞬間に、その効果、従つてその価値を減殺してしまふからである。その価値[#「価値」に傍点]が社会的な価値であることなどはこの場合きまりきつたことで問題は起らない。私はそんなことを問題とするために「政治的価値と芸術的価値」を書いたのではない。この価値は、社会的価値であることは無論であるにしても、それは、他のものの社会的価値、米や酒のもつてゐる社会的価値とも、宗教や科学がもつてゐる社会的価値ともちがつた、芸術的価値[#「芸術的価値」に傍点]であるのである。このことはあとで説明する。
ところでこの場合レーニンが文学者には最大限の自由[#「最大限の自由」に傍点]を与へなければならぬと言つたのは、無制限の自由[#「無制限の自由
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