たのかも知れない。いずれにしても、何も証拠はないのだから、訴えたところで加害者のわかる気遣いはなし、加害者がわかったところで彼には何の利益もない。ただ、彼と同じように交替の時間が来て家へ帰れるのを待っているお巡りさんに無駄な手数をかけ、自分もたとえしばらくでも時間を空費するだけのことだ。しかも、若しこれが人間の所為ではなくて、偶然の天災であるとしたらどうだろう。大自然を交番に訴えて、人間に裁いてもらうなんて、考えただけでも滑稽ではないか?
とは言え、まるで先刻《さっき》の不意の一撃が、今村の頭から歓喜の感情をすっかり追い出し、彼の身体から体温をすっかり奪ってしまったかのように、彼は身体じゅうにはげしい寒さを感じた。頭の中にはもう一片の空想も芽ぐむ余地がなかった。ことに局部の痛みと手さきの冷たさとは全身の調子をひどく不愉快にした。その上、何となく不吉な予感が、彼の心を執拗《むやみ》に蝕ばむのである。まるで、これまで運命の神にめぐまれていると信じきっていた人間が、突然、最も露骨な、醜悪極まるやりかたで、不信任の刻印をおされた時のような不面目な気持ちがするのである。安心と満足との山頂から、不安と恐怖とのどん底へ突き落されたような気持ちがするのである。
彼は世界が急にまっ暗になり、今まで光り輝いていた自分の未来が見る見るその闇の中へ吸いこまれてゆくように思った。
四、拘引
妙な出来事のために不愉快な心を抱いて、今村が自宅の門口にさしかかって来たときである。不意に、まるで雪の中から湧いて出たように、三四人の黒い人影が、ばらばらと彼の面前に現われて、粗暴とも不礼ともいいようのないやりかたで、両方から彼の腕を鷲掴《わしづか》みにした。
自信をもっていた人間が、一たん自信を裏切られると、それから先はひどく臆病になってしまって、何事にも自信がもてなくなる。一種の強迫観念にとらわれてしまって、することなすことが、悉《ことごと》くへま[#「へま」に傍点]の連発になる。勝負事に一度敗け出すととめどなく敗けつづけるような工合である。
今村は、不意に闇の中からあらわれた暴漢の、無法極まる仕打ちに対して、抗議することも何も忘れてしまった。まるでそういう取り扱いを受けるのは当然のことで、自分はそれにさからう資格のない人間ででもあるような気がした。
「静かにしろ」と一人の壮漢《そうかん》が釘を打ちこむような声で言った。「貴様は今村謹太郎に相違ないか?」第二の男が幾らか慄《ふる》えを帯びた声で言った。三人目の男は衣嚢《ポケット》から警察章を出して見せて「吾々は警視庁の刑事だ。すぐに同行するんだ」と言いながら、大事そうにまた警察章を衣嚢へしまった。
今村は、全身が蒟蒻《こんにゃく》のようにふるえるのを制《おさ》えることも、かくすこともできなかった。第一の打撃でよい加減気を腐らしていた折柄、咄嗟《とっさ》に降って湧いた二度目の更に一層グロテスクな出来事をどう判断してよいか、彼には考えるひまも力もなかった。ただ、理由なしに怖ろしかった。そして、誰も他の人は見ていないに拘《かかわ》らず、彼は、まるで白昼大通りで丸裸にされて侮辱を受けているような侮辱を感じた。細君が家の中から出て来ないのを不審がるよりも前に、この不面目な場面を細君に見られたら大変だという警戒の念が先に起った。
「家内はこのことを知っておるでしょうか?」
と彼はがたがた慄えながらきいた。
「だまってゆけ」
と一人の刑事が、無慈悲そのもののような調子で言った。今村の両手はいつのまにか捕縄《とりなわ》でかたく縛られていた。
彼は命令された通り、だまってついてゆくよりほかはなかった。自分の意志を全く失ってしまって、他人の命令に絶対服従する気持には一種の快感が伴うものだ。今村が、恐れとか怒りとかいう感じをその時さらに感じなかったのは極めて自然であると私は思う。貪慾な所有者は家宝の花瓶に少しくらい疵《きず》のついた時には、くやしくて、残念で、二晩や三晩は眠れないかも知れない。けれども、此の花瓶が、超人の手によって、百尺の高さから、花崗岩《かこうがん》の庭石の上へ投げつけられ、物の見事に文字通り、粉微塵《こなみじん》に破壊されたらどうだろう。どんなに貪慾な人間でも、その時は、一時、残念とかくやしいとかいう生やさしい心境を超脱してしまうに相違ない。
彼は、さも愉快そうにげらげらと笑い出すかも知れない。無限の両端は一致するという真理には例外はないのだ。
この刹那の今村の心理状態を学者が分析するなら、命よりも大切にしていた家宝の花瓶を、一思いに粉砕された刹那の所有者の心理状態との間に、少なからぬ共通点を見出したことであろう。
彼は、刑事がするがままに、外套と上着と短衣《チョッキ》と洋袴《ズボン》との衣嚢をのこらず裏返して紙屑一つあまさず所持品という所持品を悉く没収された。飼主に追われて小舎の中へ入る豚のような恰好と心理とをもって、彼は自動車に乗せられた。
その途たんに、彼は一瞬間自意識にかえった。名状しがたい絶望感が、風のように彼の全身を通り過ぎた。彼の唇は彼の意志とは独立に歪《ゆが》み、頬のあたりの筋肉は剛直した。
「もう駄目だ!」
卑怯な家畜のような声が思わず彼の歯間を洩《も》れて出た。三人の刑事は一斉にじろりと彼の方を見た。
五、恐怖
四人の人間の塊りをのせた自動車は、石ころでも乗せたように無感覚な相貌をして、雪の中を疾走していった。一行が警視庁へ着いた時は、もう時計は二時をよほど廻っていた。
彼はもう一度厳重な身体検査を受け、外套と帽子と上衣とは参考品として没収され、一言も言わずに、まるでメリケン粉の袋か何かのように荒々しく留置所へ入れられた。
今村は何よりも空腹と寒さとを感じた。そして、こんな場合に、こんなところで空腹を感じる自分の動物的本能に嫌悪を感じた。しばらくすると係りの警官が毛布を二三枚もって来た。外には二名の警官が立ち番をしているらしかった。彼は本能的に毛布を足でもちあげ、歯でくわえて短衣の上にまきつけた。その毛布は、これまで幾度び、ありとあらゆる忌わしい犯人の身体にまきつき、その体臭と汗とに浸みこまれていることであろう。彼は何とも言いようのない屈辱を感じたが、それでも毛布をすてはしなかった。それどころか、その毛布が自分にふさわしい着物のようにさえ思われた。
彼にはどう考えても今夜の出来事は合点がゆかなかった。ことによると、あの最初の一撃を受けた瞬間に、頭の調子が狂ってしまって、今は夢を見ているのじゃなかろうか? それよりも、最初の打撃そのものが既に夢の中の出来事で、自分は現在、家で蒲団にくるまって、女房と枕を並べて安らかに眠っているのかも知れない。
廊下を往来する守衛の靴の音が、此の上なく非音楽的なリズムをつくって、乾燥した音波を鼓膜に送って来る。その音には、日本帝国官憲の威力がこもっているようで、鼓膜を打つたびにひやりとさせる。それを聞いていると、或いは自分が無意識の裡に何か悪いことをして、それを自分で気がつかずにいるのではあるまいかという考えが湧いて来る。そして、時とすると、それが動かしがたい、確定的な事実のように思われて来る。
彼は身体をはげしくゆすぶって、此の忌わしい考えを振り払おうとした。
今頃女房はどうしているだろう。自分がこんな不名誉なところに、こんな見苦しいざまをしていることを知ったらどうだろう。自分は何も悪いことをしたおぼえはないように思う。が女房はそれを信じてくれるだろうか。それとも彼女は、自分を悪人だと信じきって、愛想をつかして逃げ出していはしないだろうか? 自分が刑事につかまった時に顔を見せなかったのはどうもおかしい。あの時もう既に逃げたあとだったかも知れぬ。
彼はまた恐ろしいものを振り払うように身体をゆすぶって妄想を追いやろうとしたが、数時間前に、幸福な考が泉のように湧いて出たように、今は、凡《あら》ゆるいまわしい想像が、工場の煙突から吐き出される煤煙《ばいえん》のように、むらむらととぐろを巻いて、彼の意識全体にひろがってゆくのであった。
それでも彼は誰をもうらまなかった。うらもうにもうらむ相手がなかったのである。警官は理由なしに臣民を拘引するわけはない。然らば如何なる理由で自分を拘引したのだろう。わからぬ。全くわからぬ。明かに無法だ。無茶だ。だが誰が一体自分に無法を加えているのだろう? 彼は、できるだけ冷静に自分の周囲を反省して見た。
妻は勿論論外だ。さりとて、護謨会社の一事務員である自分には、怪しむべき交友もない。社は忠実につとめている。社長は自分が忠実にはたらくことを知って並々ならぬ好意を示している。工場へは出入しないから、職工とは別に交渉はない。事務員はほかに四人いるが、みんな自分をすいている。小使は社中で自分に一番したしんでいるし、自分も彼には親切にしてやっている。給仕に至っては、自分は他の事務員のようにこきつかわないで、友達同然につきあっている。そのほかには、自分に交渉のある人間は世界中に両親のほかにはないといってもよい。こんな平和な、安穏な環境に生きている自分に、一体警察|沙汰《ざた》になるような事件の渦中に巻きこまれる可能性があるだろうか?
全身はぞくぞく寒い。頭はうずく。縄が両腕に喰い入ってぴりぴり痛む。頭には旋風が吹いているようで何が何やらさっぱりわからぬ。彼は、この奇怪極まる立場にいることが次第に腹立たしくなって来た。一体彼等は自分をどうしようというのだろう。どうにでもしてくれ。一刻もはやくどうにか始末をつけて貰いたい。その代り、ここからはやく出して貰いたい。この光を奪われた底冷たい無気味な部屋にいることだけは一分間でも辛棒ができん。彼は死刑台へでもよいから、はやくこの部屋を出してつれていってほしいと思った。
六、板倉刑事課長の審問
約二十分経った。彼にはそれが数時間のように思われた。
家畜小屋の閂《かんぬき》のような、非美術的極まる留置室の扉が、此の上なく野蛮な音をたてて、ごりごりときしみながら開いた。生れおちるとから、罪人以外の人間には接触したことのないような、型にはまった三人の警官が物々しい様子をして外に立っている。
「此処へ来い」
そのうちの一人が錻力《ブリキ》を叩くような声で命令した。彼は奴隷のように柔順にだまって出て行った。
三人の頑固な警官が、彼を、まるで危険な猛獣か何かのように、物々しく三方から護衛しながら、燦然《さんぜん》と電灯の光のてらしている大きな西洋室へつれて行った。
今村は、日光をおそれる土龍《もぐら》のように、明るい部屋へ出るのが気まりがわるかった。彼は、数時間前から、彼の身にふりかかって来たあまりに急激な変化のために、以前の自分と現在の自分との連絡をはっきり自覚することができなかった。不面目きわまる現在の自分の姿が、見知らぬ悪漢か何ぞのように客観視された。彼は自分で自分を笑ってやりたいような気持になった。「ざま見ろ」というような痛快な感じが心のどこかから湧いて来るのであった。
室の中央には、数百年来そこにおいてあった彫刻か何かのような、その場にふさわしい恰好をして、板倉《いたくら》刑事課長が悠然と腰をおろしていた。彼は(こんなことは言う必要がないかも知れぬが)前の晩にまだ四つになったばかりの末娘をどの女学校へ入れるかというくだらん問題について夫人と衝突し、十一時頃床へは入るまで不機嫌であったところへ、ちょうど眠入りばなを本庁から電話で起されたのであった。「何だ今頃?」と彼は叱るように電話口で答えたのであった。
当番の警部は、つい今しがた、京橋の浅野護謨会社の事務所で、小使が頭部を打たれて惨殺されているのが社長に発見されたこと、ただちに管下に非常線を張ったこと、現場へはただちに判検事及び係りの警官や警察医が臨検に向う手筈になっていること、犯人は当夜夜勤をしていた今村という事務員に嫌疑がかかっていることなどを
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