ュという青物屋と同じ待遇を彼等は世間から受けなければならんのだ。最後に、本人はまだ知らずにいるが、細君はあの事件に証人としてよばれるやら何やらで胆をつぶして月足らずで流産し、彼の空想の楽しい糧《かて》であった愛子は、闇から闇に葬られている。細君は国元へひきとられて、もう二度と東京の土をふまぬようにと親戚からさとされている。これを今村が知ったらどうだろう。彼の空想の幸福は、要するに、一寸した間違いのために、精神的にも、物質的にも、家庭的にも、すっかり廃墟となってしまって、それを再建するよすがはないのである。私は、むしろ、彼を永久に未決監において、せめても一|縷《る》の空想を楽しみながら世を去らせてやりたいと思う位だ。

     九、補遺――真犯人は誰か?

 私はこの物語を以上で終るつもりでいた。ところが今村の公判もまぢかに迫った最近ちょっとした事件が起ったので、それを補遺として書き添えておくのを適当だと思った。何故かなら、たとえ正確にはわからなかったにしても、此の事件の真犯人について私が何の意見ものべなかったのは一部の読者を失望させただろうからである。
 数日前、私は少し調べ物をする必要があったので、訪客を避けて、沼津の千本浜の一旅宿へひっこんでいた。三日の間、私は新聞も読まずに此の事件とは関係のない或る重大な事件の調査に没頭していた。
 四日目の朝であった。昨日まで吹きすさんでいた西風がけろりと凪《や》んで、珍らしく海が凪《な》いでいた。静浦の沖には、無数の漁船が日光を享楽している水鳥の群のように点々と浮んでいる。おだやかな波は、小石だらけの汀《なぎさ》へぽしゃりぽしゃりと静かな音をたてて打ち寄せている。一体波の音というものは、宇宙間に於ける最も美妙な音楽であると私は言いたい。それは何千億という細かい小音の集りである。あたかも、大洋の水を構成している無限数の分子の一つ一つの衝撃が、それぞれ独得のひびきを発し、人間の耳では到底ききわけることのできない千差万別の音階をもって自然の一大交響楽を奏しているかのようである。
 私は、硝子障子《ガラスしょうじ》を一ぱいに開け部屋じゅうへ日光を直射させながら、二階の廊下へ足を投げ出して、はじめて波の音をきく人のように珍らしそうに、この自然の音楽にきき入りながら、うっとりとして寝ころんでいた。
 その時に宿の女中が一枚の名刺をも
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