がり》にすれば少なくも三円の室代《へやだい》を切りつめることができると彼はしじゅう、万一の場合の覚悟をきめていた。しかも此の自信を彼は現在の生活によって着々と実証していた。四年の間に積み立てられた貯金は、既に二百七十円なにがしという額に達していた。そして、この貯金は、毎月少なくとも十円位の割合で増加していたのである。
この小さな財産の上に、今村の一切の希望は築きあげられていた。郊外のどこかに、六畳一室に三畳くらいの小ざっぱりした家を建てよう、月に一度位は女房とやがてできるであろう子供とをつれて洋食の一皿も食べに出かけよう、年に一度くらいは芝居も見物したい――安月給取の頭の中を毎日のように往来するこうした小さな慾望が、今村には現実の慾望とはならずに、遠い未来の希望として、描かれたり消されたりしていたのである。ことに家を建てるという考えは、幾度び彼の頭の中で咀嚼《そしゃく》され、反芻《はんすう》されたことであろう。彼の脳裡《のうり》には、もう空想の自宅が、完全に設計され、建造され、建具や家具や装飾をそなえつけられて、主人を迎え入れていたのである。此の自宅は、自分の所有なのだ。家賃を払う必要がないのだ。彼には何だか勿体《もったい》ないような気がするのであった。おまけに、この幸福な思想の特徴は、何度繰り返して頭に浮んできても決して、平凡な無刺戟なものになってしまうようなことはなくて、いつも、いきいきとした新鮮な姿で現われ、それが浮んで来る度びに、彼の幸福の雰囲気を濃厚にする不思議な力をもっていたことである。
二、吹雪の夜の大都会
夜の十時過ぎ。平生《ふだん》ならば、銀座通りはまだ宵のうちだ。全日本の流行の粋《すい》をそぐった男女の群が、まるで自分の邸内でも歩いているように、屈託のない足どりでプロムナードを楽しんでいる時刻だ。
けれども、その日は朝から雪で、午過ぎからは風が加わって吹き降りにかわっていた。九時頃には二寸も粉雪がつもって電車もとまってしまった。車道も歩道も街路樹も家々の屋根もただ見る一面の雪におおわれている。時々、自動車が、猪のように疾走して去る外には殆んど生物の住んでいることを暗示させるものは何もない。まるで、大自然の威力の前に、脆弱《ぜいじゃく》な人間の文明がおどおどして、蝸牛《かたつむり》のように頭をかたく殻の中へかくして萎縮しているよ
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