はつきりと確立されてゐるのだから、私はこゝではたゞそれを応用しさへすればよいのだ。この決定的な権威ある学者の著書が、私の議論の堅牢な基礎にならんとしてゐるのだ。この書物の中には凡ての問題が取り扱はれてゐるから、私は、たゞその中から必要なる部分を抜粋して、それを否む能はざる論拠としてゆけばよいのだ……大抵の場合に、この書物につかつてある「医学者」と言ふ言葉を「小説家」と言ふ言葉にかへさへすれば私の考へをはつきりさして、それに科学的真理のもつ厳密性を与へることができるのである。』
[#ここで字下げ終わり]
しからば、クロオド・ベルナアルは、『実験医学研究序論』に於てどんなことを述べてゐるのであるかといふと、彼は、当時まで、一の技術であると思はれてゐた医学に実験的方法を適用し、これを技術から科学にかへようとしたのである。実験的方法は、従来無生物に関する学問、即ち、物理学及び化学の研究に用ゐられて偉大なる成果をあげてゐたのであるが、クロオド・ベルナアルは、その方法は無生物の研究のみならず、生物の研究、即ち生理学及び医学にも適用さるべきものであるとして、これを無生物の研究から生物の研究へ拡大したのである。
エミイル・ゾラがなしたことは、実験的方法の適用範囲を更に一歩拡大したことにほかならぬのである。彼自身は、それを次の如く言ひ表はしてゐる。
[#ここから1字下げ]
『若し実験的方法によつて肉体生活に関する知識が得られるならば、それによつて情的及び知的生活の知識も得られるに相違ない。化学から生理学へ、生理学から人類学及び社会学へと進んでゆくのは方向の相違ではなくて程度の相違に過ぎない。而してその進路の末端に位するのが実験小説である。』
[#ここで字下げ終わり]
クロオド・ベルナアルは如何なる論拠に立つて、無生物の研究に用ひられる実験的方法を生物の研究にまで適用しようとするのであるか?
生物と無生物との相違は、彼によれば前者は自発性 〔Spontane'ite'〕 をもつてゐるといふ点にある。無生物は、普通の外部的環境の中に存在するものであるが、生物体の各要素は所謂内部的環境の中に存在するといふことが両者間の唯一の区別点である。外部環境とは、物理化学がその研究の対象とする環境である。けれども、内部環境も亦物理化学的性質を有し、そこに起る生理現象は、物理化学現象に還元することができる。そこで、外部環境も、内部環境も換言すれば生物界の現象も無生物界の現象も、ひとしく因果関係によりて決定されてゐるといふことになる。それ故に、生物の場合に於ても無生物の場合に於ても、科学的研究の目的、実験的方法の目的は、ある現象を生起せしめる直接の原因を知ること、即ちこの現象がおこるために欠くべからざる条件を明かにすることである。実験科学の目的は、物事が何故[#「何故」に傍点]起るかを知ることではなくて、如何にして[#「如何にして」に傍点]起るかを知ることである。さういふわけで、実験的方法は無生物の研究にのみ限られた方法ではなくて、生物の研究にも用ゐ得る方法であり、これを用ふることによりて、生理学及び医学は真の科学になり得ると彼は主張するのである。
二
従来観察といふ方法のみしか用ゐられてゐなかつたやうに見える文学に、実験的方法を用ふることが可能であらうか? これが第一に起つて来る問題である。それには、観察及び実験のといふ言葉の意味を明かにしておく必要がある。
クロオド・ベルナアルによれば、観察とは、自然に生起するまゝの現象を研究する方法であり、実験とは、自然現象を或る目的をもつて変へてみたり、自然のまゝでは生じないやうな事情或は条件の中で、それ等の現象を起して見て、それを研究する方法である。たとへば天文学は観察の科学であり、化学は実験科学であるが如くである。換言すれば、実験方法とは、或る現象に関する私たちの解釈、推理の真偽をたしかめるためには、その現象を人為的におこして見て、それが私たちの解釈にあつてゐるか否かをしらべて見ることである。そこで科学研究は観察によりてはじまり、実験によりて完成されるといふ関係になるのである。
ゾラによれば、文学も同様に観察と実験との科学である。観察によりて事実が与へられる。出発点が与へられる。人物が活動し、事件が展開してゆくための確乎たる地盤が与へられる。ついで、人物を活動さして、その作品に於て研究せんとする現象の因果関係が要求するとほりに事件が継起してゆくか否かを検するのが実験的方法である。ゾラは、この関係を説明するために、バルザツクの「クージーヌ・ベツト」を例にとつてゐる。そして小説といふものは、人間を一定の個人的及び社会的環境において実験した実験報告書であると論じてゐるのである。
勿論、実験小
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