て、また山の中へ向うのである。四方を見渡しても小さな山が一面眼前を埋めていて、眺望がさらに開けない、せせこましい感じをするばかりである。
 一里半ばかり行くと坊方という山村がある。其処《そこ》から蒲田の温泉と上高地の温泉へ行く道とがあるが、それへは行かず、旗鉾を通って平湯へ行こうというのであった。五里行くとその旗鉾という村へ出た。山が漸次に深くなり、山道を荷を負うて通う牛が其処此処《そこここ》に群をなしている。道の両側の坂地をならして小さな麻畑がいくつも出来ている。此処までの道は、山も高くなく、ただありふれた山地の景色に過ぎない。
 旗鉾からは山は次第に深くなり、樅、栂、檜《ひのき》などの大木が茂って、路は泥深く、牛の足跡に水が溜っていて、羽虫が一面泥の上を飛んで、人が行くとぱっと舞い上る。道は細くうねうね林の下、谿の上を伝って上る。さあっ、さあっと水の音か、樹上を渡る風の音か、ちょっと判断のつかない響がして、鳥の声が妙に澄んで来る、道を行く者も自ずと黙ってしまう。
 雨は止んで、雲が次第にうすくなって来た。まだ行く先き三里の山路だ。
 熊笹が次第に深く茂って来た。少し先きまで降っていた雨が、笹の葉にたまっていて、脚絆までもびしょ濡れになる。見ると、行く手の藪の中にぬるでの葉がもう赤く染まって秋の景色をほのめかせている。
 一里、二里、熊笹の中を踏んで登る。樅の林が厚く茂って、いくら登っても果しがない。振り返って見ると、樅の樹間を透かして、山々の繞っている間に、稲の敷いている平地が処々に見える。
 夕日がきらきら雲間を洩れて射だした。うす青い、妙に澄んだ光が熊笹の上をすべる。樅の林がとぎれて少し明るくなるが、向うを見ると、まだ暗く厚く茂っている。その中に光が射し込んで縞を織っている。
 切り倒したのか、自ずと倒れたのか、古い大木が熊笹の中に横たわっている。その上を踏み越え踏み越え登る。峰から谿から雲が次第に分れて、光は乱射する。物象の変化が如何にも不思議を思わせる。
 ふと、行くての笹原の中で、何かうなる[#「うなる」に傍点]声がする。ぐう、ぐう、と断続して聞える。思わず立ち止った。「何だろう。」「何だろう?」と同じ問が四人の間に繰り返された。
 関《かま》わず進んで見ると何か笹原の中に横になっている。傍の大木が倒れたものの上には、脊負子が立て掛けてあって、衣服が丸
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