勝手に動いているのだ。
 御嶽は信濃に向っては大きな山であるが、飛騨に面しては殆ど垂直のように思われる。その深い峰の中腹を伝って下りて行くのである。何処まで行けば人里に出られるのかというような気がする。時計を見るともう四時だ。「ねえ君。これは四里や五里の道じゃないぜ。」「何里だか知らないが疲れてしまった。」雨中を六里は確かに下った。身に着けている物は一切濡れてしまった、マッチさえ火が付かない、煙草を吸う術もない。もう外部に対する勇気はなくなった。不平を口にする事すら出来ない、殆んど何処へ行くという考えもなく、また別に深い苦痛も感じない。無意識のままで、すたすたすたすた足を運んで行くばかりである。「人」だという感念すら失っている。
 路が漸く急に下って、林が尽きて草山に出た。局面の変化は多少の希望を繋がせるものである。遠くに瀬音が聞えだした、益田川の本流であろう。その瀬音を耳にすると一行は俄《にわか》に元気付けられた。雨もこの時小降りになって、鼠色の雲が峰から峰へ動いて行く。が、次第に夕暗が迫って来るのが感じられる。
 ふと路下の方で馬の嘶《いなな》く声がする。透して見ると草山の麓に黒いものが動いている。
「オーイ」と声を掛けると、「オーイ」と下の方で応呼する。
「西洞まではもう近いかァー。」と訊《き》くと「二里位はあるぞォー。」と言って草刈る手をやめて上を仰いでいる。まだ二里の路! 自分らは殆んど其処《そこ》に立ちすくまずにはいられなかった。気が付くと其処でも此処《ここ》でもザクザクと草刈る音がする。見ると路の直ぐ上の所にも馬を引いて来ている者が二組も三組もいる。
「何処かこの辺で泊めてくれる所はないかね。」と聞くと、「西洞まで行かっしゃれ、それまではねえだ。」といって、不思議そうに私らの方を見送っている。仕方がない西洞まで歩《あ》るくことにする。
 路の両側には四、五尺にも余る草が伸びている。霧は次第に濃く群がってその草原の上を爬《は》っている。其処此処に大小の小屋が眼に這入る、今の草刈どもの泊る小屋に違いない。
 草原を過ぎて松林となった。路は平かに広くなって遂に益田川の岸に出た。なかなかの急流だ、その岸を伝って走る。四辺が次第に暗くなって来るにつれて、ただ走るより外に法はない、再び機械的に走り出した。殆んど夢中に歩いた。何里位か判明《わか》らないが、山が低くな
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