といつたやうな感じが國境を間にして、兩側の村人の胸に明らかに湛へられている。それでも彼等は互に交通してゐる。姻戚の關係を結んでゐる。一つの村の兒童は他の村の、他の國の川へ、峠を越して魚を漁りに行つてゐる。同じ國の村よりも、他國の村に近く住んでゐる彼等は、互に一種の誇りを持ちながら、互に愍《あはれ》み合ひ、助け合つて生活をしてゐる。
 少しの坂路を登りつめると、草の生えた路が、なだらかに越後の國へ向いて降りて行く。路傍には、萩が咲き、葛の廣葉が風にひるがへる間から、紅紫の花が飜《こぼ》れる。落葉松の密林、白樺の疎林、杉が處々に孤立してゐて、下の谿間を見おろしてゐる。谿を隔てゝのテーブル、ランドの上には、黒姫の麓の高原には、黒い岩の散つて落ちてゐるのが、矮林《わいりん》が、藪だたみが、まだ消えやらない山頂の霧の影を寫して、白く光る處、薄暗く隈どる處、人間の住まない寂しい原野の姿を見せてゐる。
 眞夏の晝を一人歩いて行く心持は如何にも明るい。日光を遮る砂塵もない山中の空氣は、眞上なる青い空から注ぎかける光を十分に吸ひ込んで、十分の明るさを見せて輝いてゐる。谿へ下る路が、崖の上へ來て、深い谿底を見おろして居るとき、日の光は音を立てゝ、その谷底へ流れ注ぐかと思はれる。路傍の林の簇葉《むらは》は、その光を漉して、青い光を樹根《きのね》へ投げ、林の奧は見透されないやうに、光と影が入り亂れて、不思議な思ひを起させる。
 谷底の川音が全谿に反響を立てゝ、流れから起る風が、高い兩岸から身を伸ばし、手を延ばしてゐる蔓草や松の木の枝を搖り動かしてゐる。
 山の肌を洗ひ、細い血管を傳つて、頂から麓へ、麓から谿間へ落ち込んで來る幾多の水、樹々の根元や、燒石の間へぷつ/\湧き出した小さな泉が、途を求め、藪をくぐつて、下へ/\と落ちて來た水、谿間の奧深くへ數年となく湛へてゐて、次第々々に周圍の草の根をひたし、立樹を枯らし、やがて、その白骨のやうな立枯れた巨木をも水底へ沈めてしまひ、上へ上へと登つて來て、山の出鼻を包み、岩角を沒し、林といふ林を眼にも附かないくらゐ徐々として下から呑んでしまひ、そして一樣に、何處をも平らかな水の野原としてしまつた湖水の水、その水も一箇所山の間に缺所を求めると、四里にも餘る一圓の水が俄に色めき立ち、騷ぎ立ち、殺氣を帶んで來て、爭つてその一箇所の方へ向つて急ぎ出す。長い間
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