姿は、所謂日本アルプスのやうな、連嶺の重苦しさはなく、山に向ふといふ感じを最も明かに與へて呉れる。空中をおろして來る太いなだらかな線は、裾野の中へ走り込んで、この三山の麓では、その線の先きが互に交叉してゐる。私は子供の時分からいつもその線をぢつと見つめてゐると、何ものかが此の線上へ姿を現はして自分を呼んで居るやうな、その中にその者は幾つもの數に殖えて、その線上を下へ駈け降つたり、駈け昇つたりしてゐるやうな氣がした。また或時は、何人かがその肩を越して向うへ消えて行つたやうな、その人は一度越えた背を見せると、いくら呼んでも返辭をしないやうな氣がして、堪らなくなつたことがあつた。
幾度見ても黒姫は、いつも同じやうで、しかも面目を改めて、私の前に嚴しく聳えてゐる。連嶺《れんれい》の亙り續いてゐる頂にばかり目を馳せてゐた私達が、初めて一山の美しき姿を仰ぐことの出來たのもこの山であつた。そして越後の海を初めて見て泣きたいばかりに心の締つた記憶と共に、何年たつても忘られないのはこの山の美しい姿であつた。しかもこの山は富士山のやうに全く轉《まろ》び出たやうに孤立してゐるのではない。妙高、戸隱、飯綱の諸山は相呼應して、嚴として高原の奧に空を劃して立つてゐる。
けれど私は、この山ばかりではない。何の山に向つてでもさうであるが、長く曳いてゐるその線上を辿つて頂上まで登つて見たいといふやうな感じはしたことがなかつた。寧ろそれに縋つて見たい、父親の膝に縋りつくやうに縋つて見たい心持が起つた。またある時は、その線上を登るのではなくして下つて見たい、あのなだらかな線上を滑り降りて見たい、何處までも降りられる處まで、走つて行かれる處まで走つて見たいといふ心持がした。私は山をば仰いで見るけれど、それを形づくる線上へ眼を走らせる時は、いつも上から下へ視線を走らせてゐた。それは私一人の經驗かも知れない。下から線を上へ辿るとき、私には一種の苦しさが伴つて來る。山は盛り上がつたのかも知れないが、それを圍む線は少くも上から一條に、また一呼吸に畫《か》き下されたのだといふ感じがいつもされた。
兎に角、この三山の私に與へてくれたものは、常住の姿であつた。不斷の生命の流れであつた。安心して自分の思つてゐることを、考へてゐることを、感じてゐることを、纏めて見ることの出來る感じであつた。この感じが私には何よりも尊
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