とさらひ》にさらつて行かうとするやうな勢を見せてゐる。
「まるつきり探検者だね、一足滑らしたらもう最後だ」
「困つたな、山を越すことは出来ないでせうか」
「どうして君、まあ来て見たまへ」
私は岩角から藪の中へ身を入れた。見かけだけは、岩にひらみついてゐる、矮《ひく》い灌木かなにかのやうに思つてゐたのが、中へ入つて見ると、丈の高い熊笹が縦横に入り乱れてゐて、一足でも踏み入れさせまいとする。両手で掻き分けても分かれさうにもない。二人は顔を見合はせて立つてゐた。
岬の沖をギク/\艪の音がして白帆が一艘、湾内から志摩の国の方をさして出て行く、船中の者はおそらく二人を見付けて笑つてゞもゐるだらうと情なくなつた。行く先の方は、幾重も入江が折れ重なつてゐて、容易に果てさうもない。
思ひ切つてまた、砂の崩れる岩角を横に伝つて爬《は》ふやうにして進んで行つた。なるべく下を見ないやう、木の根でもあればそれに縋りつき、地へ手を突き込むやうにして通つて行つた。
向ふの方に砂浜が見える。この先きの方にあたつて海上に山影が浮び出た。曲折した山の懐を一足ごとに注意を払つて、私達が砂浜に降りたのは夫れから一時間程も後であつた。
ほつと息をついて振返つて見ると、波は狂はしき姿をして一層鋭く崖下に打寄せてゐる。
砂浜の遠い先きの方に、漁師の小舎が幾つも見えて、煙が上つてゐる。頭はぼんやりして、足が一層痛くなる。二人はもう語る元気もなく、深い砂の中を辿つて行つた。
砂地が尽きると笹藪が茂つてゐた。その下に道らしい跡がついてゐる。カサツ、カサツと物音がしてゐるので立ち留まつて聞いてゐると、中から熊笹の伐つたのを手に持つて老爺が一人出て来た。
「伊良湖の村へは此道を行けば好いかね」
「あつそれで好いだ」
「泊るやうな家はあるかね」
「さうさなあ、宿屋もあるだが、お前様たちならなんずら、藤原様へ頼んだら泊めてくれずい」
「そりやどういふ家だね」
「もとの村長様の家で、なんでも息子さんが東京へとか行つてゐるだ」
「泊めて呉れるかな」「頼んで御覧《ごらう》じ、どれ俺《わし》も一緒に帰つて行かずか、其処まで一緒に行つて上げずよ」
老爺は伐つた竹を束にして背負つた。私は立つて周囲を見廻してゐたが、不図気がつく足許に赤紫の五弁の花が咲いてゐる。
「老爺《おやぢ》さんこりやなんて花だい」と、一本摘んで訊いて見た。
「そりや大根の花だ」。「播いたのかね」。「いんね独りで生えたゞ」。
野生の大根の花は其処此処にしほらしく咲いてゐた。老爺さんは竹の束をカサコソいはせながら先きに立つて行つた。二人は後から色々な事を尋ねながらついて行つた。伊良湖の村は、以前は此近辺にあつたのだが、今は半里ばかり先きへ引移つてゐた。住家の跡に井戸だけが残つて石の蓋をしてあるのが幾つか目にはいつた。大きな松の樹の下に碑が立つてゐた。芭蕉の記念碑で、「鷹一つ見付けてうれし伊良湖崎」と刻《ほ》りつけてあつた。
夕日がもう薄れて、波のモオンする響きがうら悲しく磯辺から響いて来る、植ゑ附けたばかりの樟の木山の下を通つて、松林の中で老爺に分れて伊良湖の村の中程へ出た頃は、夕方の冷たさが肌を襲つて来た。
藤原村長の家を、大きな松の樹を目当てに見付けてはいつて行つた。幾度び声を掛けても返事がない。そのうちに主婦らしい五十恰好の人が裏口からはいつて来た。丁寧に来意を告げて泊めて呉れるやうに依頼した。
冷たい水で足を洗つて、大きな欅の角火鉢の据ゑてある前へ膝をおろした。主婦は大きな※[#「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2−92−68]餅を沢山出して来て火鉢で焼いて喰べろといひながら炭をついだ。
「息子は農科大学へ行つてゐたが一昨年卒業して、直ぐ一年志願兵で入営して、今年帰つて来たが、四五日前|篠島《しのじま》へ嫁いである姉の所へ行つて、明日あたり帰つて来るだらう」と話した。そして、「またわしら処の子も東京で御厄介になる事も御座んすらい。何分よろしく御願ひします。こんな所で何も御馳走はねえけれど、まあゆつくり休んで行つて御くんなんし」と、丁寧にもてなして呉れた。
暗くなつてから用事で出掛けてゐた主人が自転車で汗をかきながら帰つて来た。話し好きな、人の好ささうな人であつた。風呂が出来たといふので入れて貰つた。
奥まつた室で、私達二人は寝ながら今日の冒険の話などしてゐると、勝手の方には風呂を貰ひに来た人達が何か高声で連りに話してゐた。
遠波の響きが寂しく聞こえて来る。疲れ過ぎた為めか眠れない。悲しい波の音はドオウ、ドオウと家を包んで鳴つてゐた。
底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
底本の親本:「霧の旅」中興館
1914(大正3)
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