だ。さうさな、今夜赤羽根ぐれえまでは行けずかな」
「宿屋はあるかね」と、傍に立つてゐた、東京生れのS君が不安さうに口を入れた。
「宿屋つて、どうせ彼方《あつち》へ行つちやさう好い旅舎《やどや》なんかねえさ、泊るぐれえなことは出来るけえど」
「大丈夫だ、安心してゐたまへ。どんな処だつて好いぢやないか」
「さうもいかない」とS君はちらつと私の方を見て笑つて言つた。
 間もなく一人の男が帰つて来た。私達はその舟へ乗せられた。
 藻草と海苔《のり》粗朶《そだ》とが舟脚にからむ。横浪が高く右の方から打かゝつて来る。弁天島は黒い松の林に覆はれて湖水と海との間に浮んでゐる。昨夜遅く舞坂の停車場から東海道の松並木の間を、浜松から島へ帰る人を先きにして色々な話を聞きながら通つて来た。その男は宿屋の身内の者だとか言つて、雙方に便宜なやうな話をして聞かせた。道が曲つて、ぱつと眼の前へ浜名湖の夜景色《やけい》が浮び出た時は、何処か遠い国へでも連れて来られたやうな気がした。漁火の点々として浮んでゐるのと、闇の中に咽ぶやうに寄る波と、橋の向ふに薄白く見えてゐる旅館の壁と、瑞西《スイツル》の湖畔へでも連れ出されたやうな気がした。今朝見ると、明るい日の光の下に、それ等の旅館の裏二階の欄干や障子が松林の間からはつきり見えてゐる。
 島と湖水と、その背後に迫つてゐる木立の深い山々の上を遠く隔てゝ、一列の雪の峰が雲際《うんさい》に漂渺と浮んでゐる。湖を隔てゝ見る遠い山の影、猪苗代湖の飯豊山《いひでさん》を思はせる。
「船頭さん、あの白い山は何て山だね」
「あれかね、何でも信州の山だが、名は知らねえね」
 冷たい風はあの山の向ふから吹いて来るに違ひない。見やつたばかりでも皮膚に粟が出来る。私はまだ雪の消え尽くさない、高原地の黄に枯れた草原を思ひやらずには居られなかつた。花も咲かず、冷たい風がひとり、縦《ほしいまま》に吹き渡つてゐるのだ。
 船は横波を受けながら、一条の灰色した砂洲を左に見ながら遅く進んで行く。その一条の砂洲が長く延びて、海の波の打ち込んで来るのを防いでゐる。沖へ沖へと吹く風で、寄せ来る波も高くはない。その砂浜の上へ低くまろんで悲しい音を立てゝゐる。遠い沖の果てには薄白い雲の群が、もや/\湧き上つて、勢よく伸びるでもなく、消えるでもなく、地平線上にたゝなはつてゐる。
 船底は折り/\砂地へす
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