血迷《ちまよ》ツてゐるのだから、確《たしか》な事が考へられる筈が無い。自分は愈々《いよ/\》解らない道へ踏込むで了ツた。
「狐《きつね》に、魅《ばか》されたのぢやないか。」
と考へると、心細くなツて、泣出したくなる。徑《こみち》が恰ど蜘蛛《くも》の巣のやうになツてゐて、橋が妄《むやみ》とある土地だから、何んでも橋も渡り違へたのか、徑《こみち》を曲損《まがりそこ》ねたか、此の二つに違《ちがひ》なかツたのだが、其の時は然《さ》うは思はず、頭《あたま》から狐に魅《ばか》されたと思込むで了ツて、自分は氣を確《たしか》に持ツた積で、ただ無茶苦茶に歩《ある》いた。めくら滅法に先を急いだ。
それでも時々、突《つ》ツ立《た》つては方角を考へ、目標《めじるし》を考へながら歩《ある》いたけれども、何うしても何時《いつ》も歸《かへ》る道とは違ツて居た。
其のうちにだん/\と空が狹くなツて來て、左を向いても、右を向いて見ても、山の影が、黒くうぬ[#「うぬ」に傍点]/\としてゐる。自分は谷間《たにま》のやうな處を歩いてゐるやうになツた。それと氣が付くと、
「おや、おや、變な處へ來たぜ。此處《ここ》は何處《どこ》だらう、何處へ來ちやツたんだらう。」
固《もと》より星光《ほしあかり》だから能《よ》くは解《わか》らぬが、後《うしろ》の方へ振向いて見ても、矢張《やつぱり》黒い山影が見える。自分は愈々《いよ/\》弱ツて了《しま》ツた、先へ進むで可《い》いのか、後《あと》へ引返して可《い》いのか、それすら解《わか》らなくなツて了ツた。もう喚《わめ》いても泣いても追付《おつつ》きはしない。
何處《どこ》かの森で梟《ふくろ》の啼いてゐる。それが谷間に反響して、恰どやまびこ[#「やまびこ」に傍点]のやうに聞《きこ》える。さて立ツてゐても爲方《しかた》が無いから、後《あと》へ引返す積りで、ぼつ[#「ぼつ」に傍点]/\歩《ある》き始めたが方角とても確《しか》と解ツてゐなかツた。其の氣の揉《も》めること情ないことゝ謂ツたら無い。
薄氣味《うすぎみ》惡くはある、淋しくはある、足は疲《つか》れて來る、眠くはある。加之《それに》お腹《なか》まで空《す》いて來るといふのだから、それで自分が何樣なに困りきツたかといふ事が解《わか》る。何《ど》うかすると自分の履《は》いてゐる草履がペツタ/\いふのに、飛上るやうに吃驚《びつくり》して冷汗《ひやあせ》を出しながら、足の續く限り早足に歩《ある》いた。
もし間違ツたら、終夜《よつぴて》歩いてゐる事に覺悟を定《きめ》てゐたが、たゞ定《きめ》て見たゞけの事で、中々心から其樣な勇氣の出やう筈が無い。其の間にだん/\氣が茫乎《ぼんやり》して來て、半分は眠りながらうと[#「うと」に傍点]/\して歩《ある》いてゐた。そして幾箇《いくつ》の橋を渡ツて幾度道を回ツたか知らぬが、ふいに、石か何かに躓《つまづ》いて、よろ/\として、危《あぶな》く轉《ころ》びさうになるのを、辛而《やつと》踏止《ふみとま》ツたが、それですツかり[#「すツかり」に傍点]眼《め》が覺めて了ツた。見ると今までの處とは、處が、がらり[#「がらり」に傍点]變ツてゐた。
「全體、此處《ここ》は何處《どこ》であらう。」
何處《どこ》だか解《わか》らぬが今まで來た覺の無い處といふだけは解ツてゐた。何《ど》うしたのか不思議や、其處《そこ》らが薄月夜の晩のやうに明《あか》るい。今まで眞《ま》ツ暗《くら》であツたのに不思議に明るい。豈夫《まさか》星光《ほしひかり》ではあるまいと思ツて見てゐると、確《たしか》に星光では無い。螢の光だ。
「大變な螢だ。」
と思はず知らず叫んで、びツくり[#「びツくり」に傍点]したといふよりは、呆《あき》れ返《かへ》ツて見てゐると無量幾千萬の螢が、鞠《まり》のやうにかたま[#「かたま」に傍点]ツて飛違ツてゐる。それに此處《ここ》の螢は普通の螢の二倍の大きさがある。それで螢の光で其處《そこ》らが薄月夜のやうに明いのであツた。餘り其處らが明いので、自分は始《はじめ》、夢を見てゐるのでは無いかと思ツた。餘り其處《そこ》らが奇麗なので、自分は始、狐に魅《ばか》されてゐるのでは無いかと思ツたけれども自分は、夢を見てゐるのでも無ければ狐《きつね》に魅《ばか》されてゐるのでも無い。確に正氣で確に眼を覺まして、其の螢を眺めてゐた。餘り美しくて、餘り澤山ゐるので、頓と捕《つかま》へて見やうといふ氣も起らない。自分はうツとり[#「うツとり」に傍点]として、螢に見惚《みと》れてゐると、
「おい、お前さんは、此處《ここ》へ何しに來たのだ。」
と突如《だしぬけ》に後《うしろ》から肩を叩くものがある。びツくり[#「びツくり」に傍点]して振返ると、夜目だから、能《よ》く判《わか》らぬが、脊の高い痩《やせ》ツこけた白髮の老人が、のツそり[#「のツそり」に傍点]と立ツてゐるのであツた。螢の薄光で、微《ほのか》に見える其の姿は、何樣《どん》なに薄氣味《うすぎみ》惡く見えたろう。眼は妙に爛《きら》ついてゐて、鼻は尖《とが》ツて、そして鬚《ひげ》は銀《しろがね》のやうに光ツて、胸頭《むなさき》を飾ツてゐた。
「お前さんは誰です。」と、自分は、おツかなびツくら[#「おツかなびツくら」に傍点]で訊《たづ》ねた。
「私《わし》かえ、私はの、年を老《と》ツた人さ。」と、底意地の惡さうな返事をして、自分の頭を撫《なで》て呉れる。其の聲は確《たしか》に何處《どこ》かで聞いたことのあるやうな聲だ。
自分は首を傾げて考へて見た。直ぐ足下《あしもと》には、小川が流れてゐたが、水面には螢の影が、入亂れて映《うつ》つてゐる。
「おゝ! 奇麗だ。」
と自分は熟《じつ》と流を見詰めると、螢の影は恰《まる》で流れるやうだ。
「何《ど》うだ、奇麗だらう。」と白髮の老人はさも自慢さうにいふ。何うも、其の聲は聞覺があるやうに思はれてならない。併し何《ど》うしても、誰の聲であつたか解《わか》らなかった。何處《どこ》かで梟《ふくろ》が啼出した。自分はぞつと[#「ぞつと」に傍点]しながら、
「此處は何んといふ處なんでせう。」
「此處かえ。」と老人は、洒嗄《しやが》れた、重くるしい聲で、「此處《ここ》はの、螢が多いから、螢谷といふ處だ。」
「えつ、螢谷ですつて?」
螢谷と聞《き》いて、自分は顫上つた。そして逃支度《にげじたく》をしながら、
「さ、大變だ!大變だ※[#感嘆符二つ、1−8−75]と泣聲になつて、騒立てる。
螢谷といふのは、自分の村を流れてゐる川といふ川の水源《みなもと》で、誰も知らぬ者の無い魔所であつて、何が棲《す》むでゐるのか、昔から其《それ》を知ツてゐる者が無いが、たゞ魔の者がゐると謂《い》つて夜《よる》になると誰も來ない事になつてゐた。固《もと》より其の邊に家と謂つては無い、谷も行窮つてゐて、其の谷の凹に少しばかりの山畑があるばかり、夜は何處を見ても松林と杉林ばかりである。自分の村から二里もあるのだから、
「私は何《ど》うして、此樣《こんな》な處へ來たのだらう。」
と不思議でならない。それよりはまだ、此樣な處で、白髮の老人に逢つたのが、更に不思議でならない。雖然《けれども》何んとなく物靜な、しんめりとした景色の中に、流の音が、ちよろ/\と響いてゐて、數の知れぬ螢が飛んでゐるところは實に幽邃《ゆうえん》であつた。それに何んの芬《かをり》だか解りませぬが、好い芬が其處ら一杯に芬《かを》つているので、自分は螢谷には、魔の者が棲むでゐるのでは無く、仙人が棲むでゐるのでは無いかと思つてゐた。
私は、薄氣味の惡いのも、怖《こわ》いのも忘れて、美しい景色に心を引付けられて、
「奇麗な處だ!」と感歎しながら茫然していると、
「ぢや家へ歸らなくツても可《い》いか。」
自分は急に悲しくなツて、「僕、家へ歸りたくツて爲樣《しやう》が無いんです。」
「でも、私が、お前が螢を挿《つかま》へるやうにお前を捕《つかま》へて了《しま》ツたら何《ど》うする。」
「え、私を捕へるんですツて?」と自分は泣聲になツた。
老人は突出して「捕へられるのは嫌か。ぢや螢を放して了ひなさい。」
自分は命令《いひつけ》通、直に螢を放して遣《や》ツた。老人は悦《よろこ》んで、「それで可《い》い、それで可い。では、私が、お前の家まで送ツて行ツて進《あ》げやう。だが、お前は、大分疲れてゐるやうだ。私が背負《おぶ》ツて行ツて進《あ》げる。」
自分は疲れてはゐるし、第一眠くてならなかツたから、遠慮をしないで、早速老人の肩へ兩手を掛けると、老人はえんやらツと立起ツて、ぽツくりぽツくり歩き出した。自分は體《からだ》を搖られるので、何んとも謂へぬ好い心地になツて、うと/\と眠ツて了《しま》ツた。そして何時の間に家へ歸ツたのか、翌朝眼を覺して見ると、不思議や自分は何時もの室で安《やすらか》に寢てゐた。
* * * * *
これは夢であツたらうか。自分は其後も、幾度か螢谷といふ處へ行ツて見やうと思ツたけれども遂々行かれなかツた。否、行かなかツたのでは無い、行ツても見當らなかツたのだ。抑、彼の老人は何者であツたらう。之れは、永い間自分にも解らなかツた。併し自分がもう大人になツてから、其老人は自分の祖父樣《おぢいさま》であツた事が解《わか》ツた。
底本:「三島霜川選集(上巻)」三島霜川選集刊行会
1979(昭和54)年4月8日発行
初出:「文庫」
1906(明治39)年7月15日号
※新字と旧字の混在は、底本通りとしてました。
入力:小林 徹
校正:松永正敏
2003年12月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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