に依《よ》ツてはこんなことを云ふ者《もの》もある。成程《なるほど》、一日《いちにち》の苦|闘《とう》に疲《つか》れて家《いへ》に歸《かへ》ツて來る、其處《そこ》には笑顏《ゑがほ》で迎《むか》へる妻子《さいし》がある、終日《しうじつ》の辛勞《しんらう》は一杯《いつぱい》の酒《さけ》の爲《ため》に、陶然《たうぜん》として酔《え》ツて、全《すべ》て人生の痛苦《つうく》を忘《わす》れて了ふ。恁ういふことが出來たら、其は嘸《さぞ》樂しいことだらう。併しこんなことが果《はた》して僕等に出來るだらうか、少くとも僕等はそんなことを爲《な》し得《う》る素質《そしつ》を有《いう》してゐるだらうか。何《ど》うして思ひもよらぬことだ。」と少し苛々《いらいら》したやうな調子で、
「あゝ孤獨《こどく》と落魄《らくばく》!之《これ》が僕の運命《うんめい》だ。僕見たいな者《もの》が家庭を組織《そしき》したら何うだらう。妻《つま》には嘆《なげ》きを懸《か》け子《こ》には悲しみを與《あた》へるばかりだ。僕は、病床《びやうしよう》を侍《ぢ》して[#「侍《ぢ》して」は底本では「待《ぢ》して」]看護《かんご》して呉《く》れる、優《やさ》しい女性《ぢよせい》の手《て》も知らないで淋《さび》しい臨終《りんじゆう》を遂《と》げるんだ!」
私は默《もく》して只《たゞ》歩《あゆみ》を運んだ。實際《じつさい》何《なん》と云ツて可いやら、些と返答《へんたう》に苦《くる》しんだからである[#「である」は底本では「でかる」]。友の思想と自分の思想とは常《つね》に殆《ほとん》ど同じで、其の一方の感ずることは軈《やが》て又《また》他方《たほう》の等《ひと》しく感ずる處であるが、今《いま》の場合《ばあひ》のみは、私は直《たゞち》に賛同《さんどう》の意を表《ひやう》することが出來なかツた。其の生涯の孤獨といふ考には心《こゝろ》から同情《どうじやう》しながらも、猶《なほ》他に良策《りやうさく》があるやうに思はれてならなかツた。少くとも自分だけは、もう些ツと温《あたたか》な、生涯を送りたいやうな氣がしてならなかツた。
ふと眼《め》を我《わが》歩《あゆ》み行《ゆ》く街路《がいろ》の前方《ぜんぽう》に向《む》けた。五六|間《けん》先《さき》から年頃《としごろ》の娘《むすめ》が歩いて來る。曇日《くもりび》なので蝙蝠《かほもり》は窄《すぼ》めたまゝ手《て》にしてゐる故《せい》か、稍《やゝ》小さい色白《いろじろ》の顏は、ドンヨリした日光《ひざし》の下に、まるで浮出《うきだ》したやうに際立《きわだ》ってハツキリしてゐる。頭はアツサリした束髪《そくはつ》に白《しろ》いリボンの淡白《たんぱく》な好《このみ》。娘《むすめ》は歩《あゆ》みながら私の顏を凝《ぢつ》と見入ツた。あゝ其の意味深い眼色《めいろ》!私は何んと云ツて其を形容《けいやう》することが出來やう。媚《こび》るやうな、嬲《なぶ》るやうな、そして何《なに》かに憧《あこが》れてゐるやうな其の眼……私は少女《せうぢよ》の其の眼容《まなざし》に壓付《おしつ》けられて、我にもなく下を向いて了つた。其の間《うち》に娘は艶《なまめ》かしい衣《きぬ》の香《か》を立《た》てながら、靜《しづか》に私の側《はた》を通ツて行ツた。
「フアゾムレス アイズ!」
私は幾度となく此の言葉《ことば》を心の中《なか》で繰返《くりかへ》して見た。
少女の眼は滅《め》入り込《こ》んだ私の胸を輕《かろ》くさせた。今までの悲哀《ひあい》や苦痛は固《もと》より其によツて少しも減《げん》ぜられたといふ譯《わけ》ではないが、蔽重《おつかさ》なツた雲《くも》の間《あひだ》から突然《とつぜん》日の光《ひかり》が映《さ》したやうに、前途《ぜんと》に一抹《いちまつ》の光明《くわうめう》が認《みと》められたやうに感じて、是《これ》からの自分の生活というものが、何《なん》だか生効《いきがひ》のあるやうに思はれた。若《わか》き血潮《ちしほ》の漲《みな》ぎりに、私は微醺《びくん》でも帶《お》びた時のやうにノンビリ[#「ノンビリ」は底本では「ノンドリ」]した心地《こゝち》になツた。友はそんなことは氣が付《つ》かぬといふ風《ふう》。丁度《てうど》墓門《ぼもん》にでも急《いそ》ぐ人のやうな足取《あしどり》で、トボ/\と其の淋しい歩《あゆみ》を續《つゞ》けて行ツた。
底本:「三島霜川選集(中巻)」三島霜川選集刊行会
1979(昭和54)年11月20日発行
初出:「新声」
1908(明治41)年2月1日号
※新字と旧字の混在は、底本通りとしてました。
入力:小林 徹
校正:松永正敏
2003年12月6日作成
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