の虱を潰していた。
「何処から来た。兄イ!」
 その男は無表情な口のきき方をした。
「ええ、奉天から……」
「歩いてか?」
「ええ……」
 男は再び無感動な動作で、虱を潰し始めた。が、ふと、「その兄イも一昨日大連から歩いて来たんだ」と、言って頤をしゃくって見せた。「二日三晩まるで死屍《しぶと》みたいに寝通しなんだ」
 そう云ってまた、彼は無感動な顔付をした。その男の肱の向うに、その通りの青年が寝汗をかいて腹這ったままで眠むり落ちていた。黒々と日焼けのした顔は蒼白いむくれが来ていた。もういい加減に叩き起さなければ!
 若者はごろりと横になった。眼の凹《へこ》むのを覚えた。
「飯は食ったか?」また男が問いかけた。
「いいえ、昨日から……」若者は情けない表情をした。
「そうか。そこの新聞紙をめくって見ろよ。胡瓜と黒パンがあらあな」
 若者は咽喉から手が出るほど、飛びつきたかったが、もじもじせずにはいられなかった。――もっと適切に言うならば、この男の親切な言葉に対して、何かこう精一杯な、感謝の心持の溢れた言葉だけででも報いたかったからだ。
「遠慮するな。困った時はお互だよ!」
 彼は相変らず無感動な表情で虱を殺しつづけた。
「有難うよ!」
 若者は訳の判らない感動で、反って無技巧な言葉を単純な感激で押し出してしまった。新聞紙をめくって黒パンを手にした。香ばしい匂いがぷんと来る。――ざらついてはいるが、心持ねばついた福よかな、その感触は一体何日ぶりに経験する快よさであったろうか! 若者はともすると、瞼に溢れて来る涙を危ぶみながら黒パンの塊を二つに引き裂いて、ごくんと唾液を胸元深くのみこんだ。そして次の瞬間には、餓鬼のように貪りついていた。

 若者が眼を醒したのは、翌日の夕方であった。一昼夜ぶっ通しに眠むり通して、まるで魂を置き忘れた人間のように、ふぬけた格好で起きあがった。何かの悲鳴を聞いたようにも、またそうでないようにも思われた。
 ドアが忙しそうに開いたり、閉ったりした。まだ若者の知らなかった支那服の男、それに逞しい体格の黒眼鏡の男、虱をひねり潰していた昨日の男、それから大連から歩いて来たと云われる青年の四人が、それぞれ忙しく水を汲み込んだり、短刀を研いだり、子供を追い散らすために、怒鳴ったり喚めいたりしていた。
『何事だろうか』若者は不審に思った。生欠伸《なまあくび》
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