の穴へ抜け出るようだった。
「よう! 素敵じゃあねえか」
この二人はいつでも肌身はなさず短刀を身につけていると見えて、黒眼鏡は食いかけの黒パンの破片を抛り捨てると、早速に支那服と向い合って短刀の刃でロースビーフの角を切り落して、頬ばり始めた。口中を油だらけにして、旨そうに眼玉を白黒させた。
「黒パンに、生胡瓜か。見っともない真似はよせよ! まさかにどぶ鼠[#「どぶ鼠」に傍点]じゃあんめえし……」
支那服が、皮肉に黒眼鏡を笑殺した。
「糞! 抜かすな」
黒眼鏡はそんな皮肉に応酬するよりも、咽喉一杯に、雑巾のように押し込んだビーフに手古擦《てこず》っていたのだ。
ふと、支那服が左官を見つけて、思い出したように言った。
「おい! 手前は昨日、ほら門前のロシヤ人の酒場で酔いつぶれたろう。大連はお前、たった今、領事警察に引っこ抜かれたぞ! ここらの『白』は皆んなスパイだ。滅多なことは喋舌《しゃべ》れねえんだ。それに気を配ばらずに、小僧っ児みたいな、気焔をあげるのが、ドジさ。大人気ない話よ。網んなかで跳ね廻わるようなもんじゃねえか。馬鹿な」
だが、左官は皆目、その支那服の言った意味が解らなかった。
「ほう。社会主義者だったのか。彼奴が」
黒眼鏡が興味深く訊き返えした。
「社会主義者だって、何れ大したもんじゃああんめえよ!」
支那服も黒眼鏡も、それっきりその話をやめてしまった。そして喰うだけ喰うと、二人は連れだって、暮れかかった街に出て行った。
「まるでこっちとらとは、泥亀とすっぽんほどの違いだ。豪気なもんだ」
左官は、暗くなった部屋のなかで、ビーフの食い残しをつまみあげながら呟いた。
彼等と擦れ違いに、時計屋が洞穴《ほらあな》のように糜《ただ》れた眼玉を窪ませて帰って来た。
「骨ぐるみかッさらって行かれそうに、********!」
左官は黒眼鏡の言葉を思い出して、こみあげてくる笑いを殺すことが出来なかった。
二人は彼等の喰い残しのロースビーフに噛りついたのが、御馳走の最後だった。
それっきり支那服も、黒眼鏡も帰って来なかった。無論のこと大連も、それっきりだった。――
時計屋と左官の上には、がらりと生活が向きをかえた。二人の上には再び、あのにぎやかな生活が帰らないのだ。零落と流浪の絶望が眼に見えない手を拡げ始めた。
左官には、大連の情熱に満ちた夢がなか
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