、ぐしょぐしょになって、而も余り大きくもない体格を引きずるように持て余まして、底のあいた編上靴で埃をまきたてながらよろめいて行った。すると、恰度彼のよろめいて行くアスファルトの大通りが、やがて二つに裂けて左右に岐《わか》れていた。その岐れ目の薄馬鹿の額のように間ののびた面積が、手際よく楕円形に積土《もりつち》されて、プラタナスの木株が植え込まれ、その上に四五脚の広告ベンチさえ曝《さら》されていて、この不体裁な大通りの致命的な欠陥を、その工夫が危く救いあげていた。この設計技師の苦心も、商いや仕事を抛り出してベンチの上に眠むりこけている不潔な苦力や路傍商人の不遠慮な侵入に他愛もなく踏みにじられていた。
 若者はそこまでよろめいて行った時、ちょっと立ち停った。路を考えるようにも見えたし、また空いたベンチを捜し求めるようにも受取れた。だが、その何れでもなかった。彼の眼は、無料宿泊所の新らしい木札に、磯巾着のように吸いつけられたのだ! かすかではあるが、疲れ切った若者の顔には生色が動いた――その若者は木札の意味を読みとると、すぐに病院の柵に沿うて右側の路に折れて行った。
 病院の柵が尽きると、埃の多い十字路になって、その向い側の一角はアカシヤの深い木立に蔽われて、支那風の土塀にかこまれた正念寺だった。正面に黒い門が開いていた。門柱の一方には『無料宿泊所』の看板があって『お宿のない人、職のない人は遠慮なくお越し下さい』と、親切な添え書きさえしてあった。
 この寺院と斜《はす》かいになった十字路の角は、ロシヤ人の酒場《バア》だった。酒場と云ってもそれは、馬糞よりも下等な馭者や、もっとそれよりもひどい下層労働者達が、未製のカルバスや生胡瓜を噛って、安酒を呷ったり、牛の臓腑を煮出したスープを啜って飲み食いする劣等な飲食店であった。その店頭には蒲団の破目からはみ出たボロ綿みたいな髪の毛の小娘が、雑巾よりもひどいスカートから泥だらけの素足を投げ出して、馬鈴薯の皮を剥きながら、そのまま笊におッかぶさって居睡っていた。業慾そうな猶太《ユダヤ》系の赧ら顔の主人が、風の入りそうもない店の奥の薄暗いカウンターに、ボイルされた、ポテトーみたいに、湯気の吹きそうな寝顔を投げ出していた。
 若者は注意深くロシヤ人の酒場を盗み見ながら、そのまま瞬間の思案もなく正念寺の黒門に吸われて行った。門のなかはアカシ
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