――それはまるで一秒間と***********さであった。
「いやあッ!」と、魂をさらわれて、豆腐粕みたいにフヌケ切った時計屋でさえも、脂だらけの、はっきり見分けのつきそうもない眼玉を、南瓜頭と一緒くたに、樫の木みたいにごつごつした股倉につッ込んでしまった位だ。
 若者はただ、火花のようにカッとした。それでそのまま、焼火箸に尻餅をついたような撥ね上がりかたで、闘犬みたいな唸り声をたてて黒眼鏡に夢中で飛びかかった。それまではよかったが「うぬ!」と、相手が短かく喚めいたと同時に、彼はドアの外へ右から左にそのまま吹ッ飛んで、雑草のなかに********ぶざまな格好で丸まってしまった。そして気がついた時、若者は焼火箸を尻の下に敷いた時よりも、もっと素迅い動作と、地球の外へ吹ッ飛ぶような覚悟で遁げ出した。一体どうしたというのだ!
 正念寺の門前には、露西亜の酒場があることに変りはない。
 だが、今日という今日こそ『大連』は、カルバスの元も子もすっかり綺麗薩張りと、ウォツカの酔いとひっかえてぐでんぐでんに酔払っていた。
「タワリシチ!」こう怒鳴ると、脂っぽい針松の木椅子を蹴とばして、彼は鉄砲玉のように吹っ飛んで行く若者を、かっきりと釘抜きみたいに抱き留めてしまった。
「飲め! タワリシチ! 飲め!」
 彼は漬菜のように度肝を抜かれた若者を、わ、は、はッ、わ、は、はッ! と牛の舌みたいな口唇を開いて笑い崩れている豚の尻みたいに薄汚いロシヤ人の群のなかに突き飛ばした。
「|日本人よろしい《ヤポンスキイ・ハラショ》!」
「ボルシェビイキ、ハラショウ!」
 その薄汚いロシヤ人が、一斉に手を求めた。若者はこの毛だらけの、馬の草鞋《わらじ》みたいな、途方もなくでっかい[#「でっかい」に傍点]無数の掌の包囲に、すっかり面喰ってしまった。
 大連はもう仕末におえない程酔払っていた。
「飲め。畜生! 飲め。俺は自由を愛するんだ。俺は自由の国ソビエット・ロシヤを誰よりも愛するんだ。糞! いいか。よく聞け、俺は。俺はだ。家風呂敷みたいなロシヤで、自由に背伸びをして生きたいんだ。いいか。さあ、若いの飲むんだ!」
 若者はすっかり煙に巻かれてしまった。が、また彼奴は彼奴で、性根の据らない小盗人みたいに、たったいま[#「たったいま」に傍点]はじける程に蹴とばされた睾丸のことも、鉄砲玉のように遁げ出したこと
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