俺が物心ついた頃、村の餓鬼が俺を「乞食の子」と呼んだ。俺は何よりもそれが悲しかった。泣いてその訳を母にせがんだ。母は隠しおえるものでないと知ってか、何時もとは違った正しい容子《ようす》で、
 お前のおふくろは確かに地蔵堂の縁の下で死んだのじゃが、どうしてどうして乞食どころかえ、放疲れこそはあったが若けえ立派な嫁御《よめご》であったぞえ。着ているもんでも、こがいな田舎では見られない綺麗な衣裳をつけえとったがのう。どこかの旦那衆の嫁御に違えねえのだが、何処の誰れであるかどがいしても知れなんだ。さぞ親御や旦那は捜していられるであろうが、それにお前という立派な男の子もあったのじゃけに――
 と涙ながらに打ち明けた。その時から母がおまき婆になった。父と思っていたのはアカの他人の百姓であった。
 俺はひがんだひねくれ者になつた。俺は愛のない孤児だと悟ったからだ! おまき婆は育て甲斐がないと失望した。幸四郎は飯の喰い方が悪いとか、働かないとか云って、事ごとに殴りつけた。
 俺は愛に渇した。十六で五つも年上の娘と恋に落ちた。そして村一統の指弾の的標《まと》になった。
 ――血は争えないものだ。お前のおふくろもお前と同じに肩あげのとれない内から不義に落ちて、お前を負ってこの村へ流れて来て地蔵堂の縁の下に野倒死《のたれじ》にしたんじゃ! 男の尻を追って行く途中か、それとも不義のお前という餓鬼をヒッて家に居たたまらず逃げ出した果てが、この地蔵堂の野倒死にか、どっちかまあ解らんが、子が子なら親も親じゃろうって――
 お牧婆は口を極めて俺を罵《ののし》った。俺は遂に十七の歳に村を捨てて遁げ出した。放浪がそれから始まった。だが俺はまだ母親のように野倒死にはしない。――世の中の人間は、誰れでも皆かならず二つの愛を所有している。父の愛と母の愛だ! 俺もついにそれなしには生きていられない寂しさを思う。
 俺の母親は中国の僻村《へきそん》で地蔵堂の縁の下に死んだが、父親はまだ何処かに生きて居るべき筈だ。おまき婆が言うように不義な恋から生みつけられた俺にしろ、父は父であるべき筈だ。俺は常に父親を思う――だが父親は俺を子と知らずに、世の中の人達と同じく俺を虐げてはいまいか。そして俺が考えるように父親は俺から遠く離れたところに居るのではなく、案外に俺の間近かで交渉のある人であるかも知れない――こう考えると遂に俺は人を憎めなくなる。人を憎もうとすればその顔が父になり、また反対に愛そうとする顔は冷酷な他人の顔に早変りする。実に奇怪な錯覚である。俺がテロリストにもなれず、また人道主義者にもなれないのはこのためだ! 俺は常に、憎むべき者を憎み得ず、また愛すべきものを愛し得ない悩みに悶える。この悩みがまた常に錯覚を伴う――。
 ――俺は女を抱いて、しみじみ母親の愛を感じていた。……
 言葉を知らない女は、ただ笑って、俺を行為で愛撫するより仕方がなかったのだろう。それが俺に更に、母親の慈愛を錯覚せしめた。俺は夢のように三日三夜を女の懐の中で暮らした。
 三日目の朝、女は俺の財布を振って外を指した。財布の底はコトリとも音をたてなかった。俺は悲しい眼差《まなざし》で女をみた。が、女は笑おうともしなかった。俺は遂に、うまうまと欺かれた俺を知った。泣きも泣けもしない気持であった。
 窓には、曠原のバラ色の朝焼が映っていた。女の寝不足な、白粉落ちのした顔は、俺にへドを催させた。年増女に不似合な緑色のリボン、水色の洋服、どうみたって淫売婦だ! 俺はこう云う女に三日三晩も抱きつかれていい気になって母親の夢をみていたことを悔いた。畜生! 俺はこう心に叫ぶと、女を尻眼にかけて淫売宿をオン出た。

 眼がさめると夕暮であつた。五月というのに薄寒かった。
 俺は支那街の、薄汚い豚の骨や硝子《ガラス》のカケラの転がった空地に寝込んでいたのだ。さんざ歩きとばしたことだけが思い出せた。みると俺の周囲に得体の知れない薄気味の悪い支那人が輪になって、何か声高く饒舌《しゃべ》っていた。
 ――安心しろ、まだ野倒死はしないよ――俺はこう思って、笑った。支邦人の輪が遠のいた。腹の空いたことが解った。考えてみると淫売宿で三日三晩ろくすっぽ飯も喰っていなかった。――どうしよう――と、思ったが、扨《さ》てどうもすることが出来ない。言葉の解らない支那人を眺めて、つくづく悄気切《しょげき》ったものだ。腹の空いた真似をして、膝をたたいてみせたりすぼめてみせたりすると、支那人は手を叩いて笑った。
 気がつくと、空地の向うに五六人の苦力《クーリー》がエンコして何か喰っていた。俺は立ちあがって、そこに行った。辮髪をトグロのように巻た不潔な野郎が、大きなマントウを頬張っているのだ。つい俺もその旨そうに喰っている様子に唾が出て、黙って黄色ぽいマントウに汚たない布片をもたげて手を出した。すると前にいた苦力が、獰猛《どうもう》な獣の吼《ほえ》るような叫び声を出して俺の手を払い退けた。
 そうやられると、俺も無理に手を出しかねた。黙って佇んだ。苦力達は俺の顔を睨めつけて、何かペチャクチャと囁き合った。
 やがて彼等は食器を片附けて、小屋のような房子《フワンズ》に引きあげた。俺もその後について行った。彼等と一緒に働こうと思ったのだ。俺が入ると、暗い土間のところでアバタ面の一際獰猛な苦力頭が、――何んだ! 何者だ――というように眼をむいて叫んだ。俺はびっくりして、一足二足あとへすさったが、また考え直してにやにや笑いかけて図太く土間に進んだ。俺はスコップで穴を掘る真似をして、働かして貰い度いものだという意味を通じた。が、苦力頭は俺の肩を掴かんで、外を指さした。出て行けというのだ。しかし俺は出て行くところはない。かぶりを振ってそこの隅にへタバリ付いた。
 苦力頭は仕方がないとでも云うような顔で、自分の腰掛に腰を据えて薄暗いランプの灯で、ブリキの杯で酒を嘗《な》めはじめた。他の苦力達が、俺を不思議そうに寝床の中から凝視《みつ》めた。
 あくる朝、鶏に棚の上から糞をヒッかけられて眼を覚ました。苦力頭が、棒切れで豚のように寝込んでいる苦力どもを突き起して廻った。あちらこちらで大きな欠伸《あくび》がして、どやどやと皆起き出た。
 苦力頭の女房らしいビンツケで髪を固めているような、不格好な女がマントウやら葱《ねぎ》やら唐黍《とうきび》の粥《かゆ》のようなものを土器《かわらけ》のような容れものに盛って、五分板の上に膳立てをしていた。そして頻《しき》りに俺を睨みつけた。
 苦力頭は、鼻もヒッカケない面付《つらつき》で俺を冷たく無視した。苦力達がさんざ朝飯を食い始めたが、誰も俺にマントウの一片《ひとかけ》らも突き出そうとしなかった。俺は喰えというまで手を出すまいと覚悟した。
 皆がシャベルやツルをもって稼ぎに出だしたので、俺も一本担いで後に続いた。誰も何んとも言わなかった。
 仕事は道路のネボリであった。俺はシャツ一枚になってスコを振った。腹が減って眠が眩みそうであったが、一日の我慢だと思ってヤケに精を出した。苦力達は俺の仕事に驚いた。まさか日本人に土方という稼業はあるまいと思ったに違いない。支那に来ている日本人は皆偉そうぶって、苦力を足で蹴飛ばしている訳だから。苦力頭が昼ごろ見廻りに来たが、その時も俺に見向きもしなかった。アバタ面を虎のようにひんむいて、苦力どもを罵っていた。
 昼飯の時、苦力のひとりが俺にマントウと茶碗に一杯の塩辛い漬物を食えと云って突き出した。いくら腹が減っていても、バラバラした味気のないマントウは食えなかった。塩辛い漬物を腹一杯に食って、水ばかり呑んだ。
 仕事を終った時は流石《さすが》に疲れた。転げそうな体をようやく小屋に運んだ。
 苦力たちは、用意の出来ていた食物を、前の空地に運んで貪《むさぼ》りついた。一日十五六時間も働いて、日の長いのに三度の飯は腹が減るのは無理もなかった。俺は腹が減り切っていたが、マントウには手が出なかった、熱い湯を呑んで、大根の生まを噛《か》じった。そして房子に入った。土間の入口の古い机に倚《よ》って、酒を呑んでいた苦力頭が俺をみて、はじめてにっこりとアバタ面を崩して笑った。そしてブリキの盃を俺に突きつけた。俺は盃をとるかわりに腕を掴んで、 ――大将! 俺を働かしてくれるか有難い――と叫んだ。苦力頭は、俺の言葉にキョトンとしたが、感じ深い眼で俺を眺め、そして慰めるように肩を叩いて盃を揺ぶった。――やがて喰い物にも慣れる。辛抱して働けよ、なア労働者には国境はないのだ、お互に働きさえすれば支那人であろうが、日本人であろうが、ちっとも関ったことはねえさ。まあ一杯過ごして元気をつけろ兄弟! ――苦力頭のアバタにはこんな表情が浮かんでいた。俺は涙の出るような気持で、強烈な支那酒を呷《あお》った。
[#天より16字下げ、地より2字上げで](大正十五年六月「文芸戦線」)



底本:「日本現代文学全集 69 プロレタリア文学集」講談社
   1969(昭和44)年1月19日初版第1刷
   1980(昭和55)年5月26日増補改訂版第1刷
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
常用漢字表、人名漢字別表に掲げられている漢字は、新字にあらためました。
繰返し記号「ゝ」「ゞ」は、仮名に書き換えました。
拗促音は、小書きしました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野 裕
校正:Juki
2000年9月4日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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